20世紀的脱Hi-Fi音響論(特別編)


※モノラルを愛する人にはこのロゴの使用を許可?しまする


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「ジェンセンは人声のワークウェア」は、オーディオマニアになかなか人気の出ないジェンセンのPAスピーカーの歴史について語りたいオヤジの衝動をモニターします。

ジェンセンは人声のワークウェア
【自分の愛機ジェンセンを自慢したいのだが】
 ジェンセンの商業用スピーカーの魅力とは?
 ジェンセンで輝く音楽たち
 庶民の手に届く出費でモノラル録音を堪能する
【ジェンセンをジーンズに喩えてみた】
 ジーンズがファッションになる前は
 ジェンセンのPAスピーカーとジーンズを比べてみた
 私なりのワークウェアの着こなし
【働く道具としてのPAシステム】
 街頭でニッケルコインを稼ぐジェンセン
 人の声の拡声に特化したエクステンデッドレンジ
 ¢10で買えるひとときの夢
【昭和のド根性モノラル】
 モノラルはレイアウトフリー
 懐かしいラジオの音がするトランス
 ステレオの音場感なんてただのリバーブの音
 モノラルの基準はコンサートホール
【モノラルと過ごす時間】
冒険は続く
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。


ジェンセンは人声のワークウェア

【自分の愛機ジェンセンを自慢したいのだが】

【ジェンセンの商業用スピーカーの魅力とは?】
ジェンセンのサウンドをどう表現していいか、いつも困っている。20世紀初頭から半世紀に渡り、非常に広範にOEM生産したスピーカー・メーカーなので、他のメーカーのように自身のブランドが確立されていないような感じもする。例えば1960年代に同軸2wayスピーカーを4つの開発グループにより全く別のキャラクターで販売するなど、まとまった商談さえあれば何でも喰い付いていった感じもなくもない。Hi-Fiオーディオ向けのコンシュマー市場のなかでのJesnenは、この手頃な価格でのエトセトラという印象の薄い存在に映るのである。また一方では、WEのガチガチなトーキーシステムに低音用スピーカーを製造したり、G610など最高級の同軸ユニットを製造したりと、他社はおろか自社でも他に追随を許さないプロフェッショナル用のスピーカーも残している。もちろん最高スペックのユニットは、価格も青天井である。この雲泥ともいえる両者の違いを一緒に抱えているのが、スピーカー専業メーカーのパイオニアであるジェンセンの複雑な性格の一端である。

1930年代にワイドレンジ化されたトーキーシステム(プロフェッショナル)

1950年代の電子パイプオルガン用天吊りアレイ(プロフェッショナル)


本物は誰だ? 1960年代のJensen Sigmaシリーズ同軸スピーカー(コンシュマー)

で、私が話題にしたいのは、この民生用でもプロ用でもない第三極となる、商業用(Commercial)スピーカーである。コンサート・シリーズと呼ばれたのがそれで、100人程度のちょっとした集会で使用する拡声器、ジュークボックス、ギターアンプ、移動映画館のリプロデューサーなど、いわば汎用的なPAスピーカーとして製造されていたものとなる。このジェンセンのコンサート・シリーズを商業用と呼びたい理由は、コンシュマーが一般家庭での消費財として扱われ一時的な物品税のみで済み、プロフェッショナルがその施設の要(かなめ)として資産価値の高いものとして資産税を支払う必要のあるものである。これに対し、コマーシャルは商業設備において消耗品として扱われるようなものとなる。つまり物品の性格としてはコンシュマーと同様の消費財であるのに、商業施設での使用を前提に流通するプロ用ともいえる部品となる。この二律背反しているような性格が、実はジェンセンのPAスピーカーの正しい評価を鈍らせている原因のような気がする。実際に1940年代末には、家電組込用のスタンダード・シリーズと、ステージ拡声器として使用するコンサート・シリーズに分かれていたが、これはコンシュマー向けにもテレビやラジオ、電蓄などの交換部品として売られていて、両者は単に大きさや価格の違いとして混同されていた。



上:プロカスタマー向けカタログ、下:コンシュマー向けカタログ

私が使用しているJensen C12Rはコンサート・シリーズのしんがりを務める一品で、ザラッとした歪みを伴う音色は、お世辞にも上品だと言えないが、飛び跳ねるような活力はジェンセン以外のスピーカーからは中々聴けない。つまり、足腰の筋力が非常に強く、とてもアメリカンなエンターテインメントの雰囲気を振り撒くのがジェンセンの良さなのだ。しかし、それは音楽そのものがそうなのだと言われると、それ以上の言葉が出ない。ジェンセンはただひたすら音楽のもつヴァイタリティを拡声するのだ。逆に言うとガラスケースに入ったお人形さんのような綺麗さを求める人の気持ちが知りたい。ただ音が綺麗なだけで評価するなら、おそらく過去の録音の半数以上は脱落してしまうだろう。そう考えると自分のオーディオ環境で何を優先すべきかは自ずと判ってくるのだ。

我が家のJensen C12Rを中心に整えたモノラル・オーディオ・システム

しかし、ジェンセンの成り立ちは、ただエンターテインメントのために開発されたのではない。その前身だったマグナヴォックスがそうだったように、むしろ大都会で大勢の人が集まる場で、政治的な演説を拡声するために造られた。なぜアメリカでそれが必要かというと、貴族社会が歴然としてる欧州に比べ、多種多様な移民によって成り立つ大都会では、参政権に関する考え方が最初から異なっており、多種多様なルーツを持つ人々に広場で演説で訴えかける必要性があったからである。PA=パブリック・アドレスの役割は、鉄道駅の構内放送に始まるとされるが、どちらも役割は一緒である。スピーカー(会話者)の名のとおり、人間の言葉を大きく明瞭に響かせることからスタートしているのだ。

1917年の街頭PA装置のデモ(左)、1941年のカタログ(右)


その意味では、ジェンセンのPAスピーカーは人間の声と共に歩んできたのであるが、それは図らずもスウィングジャズのビッグバンドが増えていく中、ボーカルの拡声のために使用されたのが、エンターテインメントとの関わりをもつ切っ掛けになった。声を張り上げず軽くスウィングするクルーン唱法が流行したのは、よくラジオでの実況放送を意識したものだと言われるが、何よりも数百人を集客するホールでも、ソロボーカルをビッグバンドに負けない音量まで拡声できるPA技術あってのものであった。ジェンセン・スピーカーはそのステージ・パフォーマンスにおいても、スーツケースに収まる可搬型スピーカーで30Wクラスの音響レベルを達成できる性能を提供したのだ。ここで注目したいのは、ラジオやトーキーのように電気録音だけを再生するのではなく、ビッグバンドの生音に混ざってボーカルを拡声しても、ボーカルがバンドの音に埋もれない性能を必要としていることだ。つまり生楽器の広いダイナミックレンジに対抗できる、大音量と俊敏な反応の両方を兼ね備えていなければならない。それはホーンやドラムに比べ音量の小さい、ギターを拡声することにおいても同じであった。このため、現在のジェンセン・スピーカーはギターアンプ用として販売されているが、元を辿るとボーカルを含む汎用のPAスピーカーであり、1960年代前半まではジュークボックスの主力ユニットとして活躍していた。

ボーカルを拡声するために活躍したスーツケース型スピーカー(1930年代)

ジェンセンP12R(アルニコ磁石)~C12R(セラミック磁石)が、Rock-ola、Seeburg、Wurlitzerなどのジュークボックスに登用されたのは1956~64年であり、まさにオールディーズの黄金時代を担っていた。たとえアメリカでも多くの家庭で使用されたレコードプレーヤーが卓上ラジオと変わらないスペックだったのに対し、迫力ある音響で聴ける大型モノラル・システムはジュークボックスが担っていたのだ。実際に聴いてみるとジェンセンの再生する勢いあるステップがなければ、単純なアレンジの楽曲はセピア色の金太郎飴(ただのべっ甲飴?)のように聞こえてすぐに飽きるだろう。ジェンセンを通じてオールディーズは輝くのである。

Jensen C12Rは多くのジュークボックスで使用された(Rock-ola Capri, 1963)

【ジェンセンで輝く音楽たち】
ではオーディオ技術の発展からではなく、音楽史の観点からモノラル録音をみてみると、実は現在ある音楽ジャンルの90%以上はモノラル時代に創成され、今にいたっていると言える。そこには20世紀に生まれたジャズ、ブルース、R&B、ロックというアメリカのポピュラー音楽はもとより、ラフマニノフからストラヴィンスキーにいたる近代クラシック音楽、懐メロから歌謡曲にいたる日本歌謡史など、レコードやラジオを通じて広まった音楽が含まれている。それに加え古いモノラル録音が、功成り名遂げた年老いたミュージシャンの演奏だけかというと、話は逆で、クラシックを除いてほとんどが20代のバリバリに若い時期の録音である。このことは何を示しているかというと、音楽を安定した高音質で聴きたいならステレオで聴くべきだし、ジャンル形成にいたるバイタリティを肌で感じたいならモノラル時代にさかのぼって聴くべきだという、全く異なる音楽鑑賞の方法が浮かび上がるのである。レコードで聴くモノラル録音は、生きた音楽史の宝庫なのだ。


モノラルは貧しい音ではなく豊かなコミュニケーションの上に成り立っていた

ビートルズ以前はルーツロック、ビバップ以前は戦前ジャズという感じで、音質的にも音楽的にも、参考資料程度に思っている人が多いだろう。しかし、こうしたジャンルの形成される以前の音楽は、広義のジャズ、広義のブルース、広義のカントリー音楽というふうに、曖昧なジャンル分けのフロンティアが広がっている。それもそのはず、ミュージシャンの多くは同業者として互いに影響を受けながら自身の音楽を形作っていたのだ。この未開拓エリアの音楽をニュートラルに再生するためには、スピーカーそのものが生きの良いものでなければ、死んだ魚の目のようにうつる。ジェンセンで聴くと、ボーカルはマイクをそのまま拡声したように語り掛け、生ドラムはビートが気持よく決まる。パフォーマンスとしては今では真似できない熟練の技が堪能できる。つまり古い音楽と録音を本格的な鑑賞の対象として扱えるタフさが存分に発揮されるのだ。

ジャズの道程
ジェリー・ロール・モートン/全録音集1926~30

モートンはジャズ史上はじめてアレンジャーと呼べる仕事のできたピアニストだ。そのように知られるようになったのは、1940年代にアメリカ民族音楽の膨大なライブラリーを築き上げたアラン・ローマックスによる8時間に渡るインタビュー録音によってだが、ニューオリンズの娼館で育ったというクレオール系のミュージシャンについて細かく知る者はほとんどいない。このRCAに残したデキシーランド・ジャズのコレクションも、1900年代に流行っていたラグタイムやケークウォークを再現したものだが、録音品質としてはこの時期に最新だった高級蓄音機ビクトローラ・クレデンザのために録音されたものと推察されるほどキレキレの良い感じに仕上がっている。スウィング・ジャズが流行して以後の、田舎風のワンステップのリズムを懐かしむ感じではなく、大道芸で道行く人を呼び込むようなシャキッとした風情がたまらなく快感を呼ぶ。
シナトラ・ウィズ・ドーシー/初期ヒットソング集(1940~42)

「マイウェイおじさん」として壮年期にポップス・スタンダードの代名詞となったフランク・シナトラが、若かりし頃にトミー・ドーシー楽団と共演した戦中かのSP盤を集成したもので、RCAがソニー(旧コロンビア)と同じ釜の飯を喰うようになってシナジー効果のでた復刻品質を誇る。娘のナンシー・シナトラが序文を寄せているように、特別なエフェクトやオーバーダブを施さず「まるでライブ演奏を聴くように」当時鳴っていた音そのままに復活したと大絶賛である。有名な歌手だけに状態の良いオリジナルSP盤を集めるなど個人ではほぼ不可能だが、こうして満を持して世に出たのは食わず嫌いも良いところだろう。しかしシナトラの何でもない歌い出しでも放つ色気のすごさは、女学生のアイドルという異名をもった若いこの時期だけのものである。個人的には1980年代のデヴィッド・ボウイに似ていなくもないと思うが、時代の差があっても変わらぬ男の色香を存分に放つ。
グレン・ミラー楽団&アンドリュース・シスターズ:チェスターフィールド・ブロードキャスト(1939~40)

戦中に慰問団を組んでノルマンデー上陸作戦のときには、勝利の旗印としてラジオからグレン・ミラー楽団が音楽を流したと言われるが、それはジャズがナチス・ドイツから有色人種による退廃音楽として排除されていたからでもある。白人のジャズ・バンドというのは、二重の意味で血統主義を否定するプロパガンダとなった。
カラーフィルムで撮られた映画「グレンミラー物語」があるために、ベニー・グッドマンやサッチモのように戦後も長い芸歴のように思いがちだが、これは1942年に楽団を解散する前のライブ音源である。タバコ会社のチェスターフィールドが提供した無料コンサートで、当時はラジオで放送されるコンサートでは観客からお金を取ってはならないという法律があり、これは抽選で入場券の当たった人が観衆となっているが、スウィングジャズの盛況ぶりも伝える記録となっている。
元がアセテート盤の復刻なので、ザラッとした感じがデジタルとの相性が悪いように感じるだろうが、そこをしっかり鳴らせるバランスを見つけるまで辛抱してほしい音源である。
ジャイヴをもっとシリたいか?/キャブ・キャロウェイ(1940~47)
(Are you HEP to the JIVE?)

映画「ブルース・ブラザーズ」で健在ぶりをみせたキャブ・キャロウェイをどういうジャンルに含めればいいかを正確に言い当てることは難しいだろう。ジャズだというとエリントン楽団をコットン・クラブから追い出したと疎まれるし、R&Bというにはビッグバンド中心で大げさすぎる、Hip-Hopのルーツといえば内容が軽すぎる、いわゆるジャンピング・ブルースというジャンルも他に例が少ないので、そういう言い回しがあったんだと思うくらい。でもそんな検証は実に無駄だし、ラジオから流れる陽気な調べは、放送禁止用語を軽々と飛び越えキャロウェイが連発する黒人スラング辞典まで生まれるような現象まで生み出した。そういう俗っぽさからブルースが心を鷲掴みにするまでそれほど時間はかからなかっただろう。
スウィンギング・ウィズ・ビング!(1944-54年)

ラジオ・ディズの看板番組ビング・クロスビー・ショウの名場面を散りばめたオムニバス3枚組。1/3はアセテート盤、2/3はテープ収録であるが、レンジ感を合わせるために高域はカットしてある。このCDは多彩なゲストと歌芸を競い合うようにまとめられているのが特徴で、アンドリュース・シスターズ、ナット・キング・コール、サッチモ、エラ・フィッツジェラルドなど、肌の色に関わらずフランクに接するクロスビーのパーソネルも板に付いており、文字通り「音楽に人種も国境もなし」という言葉通りのハートフルな番組進行が聴かれる。まだ歌手としては売り出してまもないナット・キング・コールにいち早く目を付けて呼んでみたり(ナット自身は遠慮している様子が判る)、壮年期はやや力で押し切る傾向のあったサッチモのおどけたキャラクターを最大限に引き出した収録もある。この手の歌手が、何でも「オレさまの歌」という仰々しい態度を取り勝ちなところを、全米視聴率No.1番組でさえ、謙虚に新しい才能を発掘する態度は全く敬服する。利益主導型でプロモートするショウビズの世界を、彼なりの柔らかな身のこなしで泳ぎまわった勇姿の記録でもある。
ジャンゴ・ラインハルト/初期録音集(1934~39)

ジャズ・ギターの分野では知らぬ人のいないミュージシャンだが、初期にホーンやドラムを使わないストリングだけのフランス・ホット・ファイヴを組んで、欧米各地を旅して演奏していた。フランス系ロマ人という民族的背景をもつ理由からか、神出鬼没のようなところがあり、録音場所もフランス、イギリス、アメリカと多岐に渡り、なかなかディスコグラフィの整理が難しいミュージシャンの一人ともいえる。これまでも最晩年にローマでアセテート盤に吹き込まれたRCA盤「ジャンゴロジー」でわずかに知られるのみでなかなか復刻が進まなかったが、この英JSPの復刻CDは、音質も曲数もとても充実しており、スウィングジャズ全盛の時代にギターセッションを浸透させた天才ギタリストの魅力を十二分に伝えている。
キング・コール・トリオ/放送用録音集(1939-40年)

旧来から米デッカの抜粋版で知られた録音だが、高域をバッサリ切ってモッサリした悪音の代表盤だった。ここでは元のトランスファー盤まで遡ってデジタル・アーカイブしたNAXOS盤を推す。ナット・キング・コールがジャズピアニストとして活躍していた時期のアセテート録音で、スウィングジャズ全盛の時代に、シンプルなピアノトリオに自分たちのボーカルも織り交ぜての洒脱なアレンジを聴かせた。録音にも次世代規格を織り込んでウッドベースのソロパートを収録するなど、結構野心的なオーデイオ心も垣間見せる。パワープレーが得意とされがちな黒人ジャズメンの印象とは真逆の、非常に洗練された知的な佇まいが持ち味であり、ビバップに移行する時代の狭間にあって評価のうえでとても損をしている。ともあれ極上の軽音楽をご堪能あれ。
ブルースからロカビリーへの道程
ヘンリー・トーマス全録音集(1927-29)

黒人のブルースマンとしては、クウィルというパンに似た笛を使った放浪芸人で、スクエアダンス、ラグタイム、ブルースと、まるで生きたアメリカ歌謡史のような芸風をもった人である。クウィルのなんともひょうきんな音色がいとおかしで、これを聴くだけでもこのCDの価値はある。
Good time Blues(1930~41)

戦前のジャグ・バンドを中心に、大恐慌を境に南部からシカゴへと移動をはじめた時期のジューク・ジョイント(黒人の盛り場)での陽気な楽曲を集めたもの。バケツに弦を張ったベース、洗濯板を打楽器に、水差しをカズーにしたりと、そこら辺にあるものを何でも楽器にしては、大恐慌を乗り越えようとたくましく生きた時代の記録だ。よくブルースがロックの生みの親のような言い方がされるが、ロカビリーの陽気さはジャグ・バンドから引き継いでいるように思える。ソニーが1988年に米コロムビアを吸収合併した後に、文化事業も兼ねてOkeh、Vocalionレコードを中心にアメリカ音楽のアーカイヴを良質な復刻でCD化したシリーズの一枚。
Mississippi Juke Joint Blues (9th September 1941)

1941年のミシシッピ州コアホマ群クラークスデール市の黒人たちが集う5つの店(ジューク・ジョイント)にあったジュークボックスに詰まってたレコードのリストに載っていたSP盤を集めたコンピレーション・アルバム。場所が場所だけに素朴なデルタブルースを集めたものかと思いきや、はるかシカゴやニューヨークのジャズバンドを従えたブルースがどっさり詰まっていた。なので聞き流すと当時のラジオ番組を聴いているような錯覚に陥る。この手の復刻盤は音質の悪いことが多いが、これは愛情をいっぱい注いだ良質な復刻である。
Aristocratレコード/ブルース録音集(1947~50)

泣く子も黙るチェスレコードの前身のレーベルによる、シカゴブルースの誕生を告げる戦後の録音集で、エレクトリック化の途上にある演奏記録でもある。まさにJensenスピーカーの第二期を象徴する録音だが、当時はまだSP録音、それもライブ同様にクリスタルマイクでのダイレクトカットで録音された。この時期と並行してテキサスのサン・レコードのロカビリー、さらにニューヨークのアトランティック・レコードのR&Bなど、新しいジャンルが産声を上げていたが、そのどれもがJensenの拡声技術と深く関わっている。まさにアメリカン・ポップスの原点となるサウンドである。
メンフィス・レコーディングスVol.1/サン・レコード(1952~57)

戦後のロックンロールの発展史を語るうえで、ニューヨークやロスのような大都会に加え、メンフィスという南部の町が外せないのは、まさにサム・フィリップスが個人営業していたアマチュア向けのレコード製作サービスがあったからである。地元のラジオDJをしながら黒人音楽を正統に認めてもらうべく追力した人で、このコンピにあるようにエルヴィス・プレスリー、ロイ・オービソン、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュというスターたちのデビュー盤のほか、正式に会社として運営する以前に発掘したミュージシャンに、B.B.キング、ハウリン・ウルフなどブルース界の大物も控えていて、多くはサン・スタジオで録音したレコードを名刺代わりにキャリアを積んでいった。このシリーズはサン・レコードのシングル盤全てを復刻するものの1巻目にあたり、10枚組180曲という膨大な記録でありながら、そのどれもがジャンルの垣根を跳ね飛ばす個性あふれるタレント揃いであり、上記の大物スターはまさに玉石混交の状態で見出されたことが判る。元のリリースがSP盤なので、ハイファイ録音と勘違いすると少し面喰らうが、逆によくここまで状態よくコレクションしたものと感心する。
Cruisin' Story 1955-60

1950年代のアメリカン・ポップスのヒット曲を75曲も集めたコンピで、復刻音源もしっかりしており万人にお勧めできる内容のもの。ともかくボーカルの質感がよくて、これでオーディオを調整するとまず間違いない。それとシンプルなツービートを主体にした生ドラムの生き生きしたリズムさばきもすばらしい。単純にリトル・リチャードのキレキレのボーカルセンスだけでも必聴だし、様々なドゥーワップ・グループのしなやかな色気を出し切れるかも評価基準になる。
フォーク音楽の道程
Polish Village Music 1927-1933

我ながら変なCDを持っていたと呆れたと思うときがあるが、これは戦前にニューヨークとシカゴに形成されたポーランド移民の民族音楽。ポーランドという地の利でもあろうが、フィドルやクッリネット、アコーディオンなどの扱いは、クレズマー音楽に近くもあり、ポルカのようなものもあり、やがてカントリー・マウンテン・ミュージックに流入してくものである。その出自をみると、白人=高貴というものでもなく、デルタ・ブルースと同じく、農民の労働後の憩いの音楽であった。両者は親しい隣人としてアメリカ音楽を形作ってきたのである。
White Country Blues, 1926-1938: A Lighter Shade Of Blue

戦前ブルースというとただでさえキワモノ扱いされやすいのだが、このアルバムは白人のカントリー・ブルースに光をあてたキワモノ中のキワモノ。とはいえ、当時は過酷な労働条件の下で抑圧されていたアイリッシュなどが居たわけで、そうしたなかから現代に通じる極上の娯楽音楽が生まれたというのも全く嘘ではない。この録音集は当時の商業録音をピックアップして2枚のCDに収めたものだが、ブルース&アイリッシュ&ボードビル…スライドギター、フィドル、ハープ(ハーモニカ)、ヨーデルなど、創生期のカオス状態がエッセンスとして記録されている。南部音楽への差別的な扱いもあって、録音状態は必ずしも良好ではないが、ソニーがUSAの御旗を掲げての事業とあって、かなり力の入った復刻となっている。最初のスライドギターの一音から1929年という古さは全く感じられない。
ジミー・ロジャース(1927~32)

「歌うブレーキマン」として機関車の火夫の出で立ちでカントリーソングを歌った最初のスターである。RCAビクターに吹き込んだヨーデル節の歌はその数110曲にもおよび、おそらくギネスブックものだと思う。19世紀のミシシッピ生まれで、生まれつき病弱だったせいか父親と共に田舎に引っ越し、少年時代にメディスンショウ(薬売りの余興)の一員として南部地方を周った経験もあるという。堅気な仕事として働いた鉄道員も病弱のためリタイア、歌手として自立することを決意するものの、仲間のカントリーバンドからは嫌われ、結局ソロ活動へ転身したのが、結局はフォーク・スタイルを確立したというべきだ。おまけと言っては豪勢な同業のカントリーミュージシャンの貴重な音源もCD1枚分付いている。
ウッディ・ガスリー/パフォーマンス1949

戦前からのフォークソングの旗手だったウッディ・ガスリーが、ニュージャージーで公演したライブ録音。当時、まだ試作品に近かったウェブスター社のワイヤーレコーダーで録音されたものだが、特殊なソフトウェアを使って修復したというもの。アラン・ローマックスによる米国会図書館の録音ではロングインタビューだと思ってた、歌が始まる前のしゃべりがともかく長く、それだけでもライナーノーツが書けそうな感じだが、観客とのコミュニケーションを大切にしていた様子が判る。
フォギー・マウンテン・ブレイクダウン/フラット&スラッグス(1948~51)

ブルーグラスの創生期に演奏スタイルを確立した2人によるマーキュリー在籍時の16/30曲の記録。映画「俺たちに明日はない(1967)」の挿入歌として使用されたため、それこそずいぶん昔からあったのだと思いがちだが、ジャンルを確立したのはそれほど古いことではない。当時から完成度が高かったためコテコテの関西漫才のように思われがちだが、バンドを結成したてのこの時期の録音がどうもベスト・パフォーマンスだったらしく、まだアセテート録音機の時代だったが十分にハイファイに録れていると思うのは、演奏に勢いがあり青臭く初々しい雰囲気が漂っているからだと思う。
ニューポート・フォーク・フェスティバル(1959)

長い歴史をもつフォーク・フェスの第1回目の記録。呼びかけ人には、アメリカ中の民族音楽をフィールド録音で蒐集したAlan Lomax氏が含まれており、フォークブームが起こった後の商業的なものではなく、むしろ広義のフォーク(=民族)音楽の演奏家が招待されている。屋外会場ということもあり録音品質は報道用のインタビューで用いられるものと同じもので、フォークは言葉の芸術という感覚が強く、特に楽器にマイクが充てられているわけではないのでやや不満が残るかもしれないが、狭い帯域ながら肉厚で落ち付いた音質である。
ブルービート/スカの誕生(1959-60)

大英帝国から独立直前のジャマイカで流行ったスカの専門レーベル、ブルービート・レコードの初期シングルの復刻盤である。実はモッズ達の間では、このスカのレコードが一番ナウいもので、ピーター・バラカン氏が隣のきれいなお姉さんがスカのレコードをよく聞いていたことを懐述している。ノッティングヒルに多かったジャマイカ移民は、このレーベルと同時期からカーニバルを始めたのだが、ジャマイカ人をねらった人種暴動があったりして、1968年に至るまで公式の行事としては認可されない状態が続いていた。それまでのイギリスにおけるラヴ&ピースの思想は、個人的にはジャマイカ人から学んだのではないかと思える。ともかくリズムのノリが全てだが、それが単調に聞こえたときは、自分のオーディオ装置がどこか間違っていると考えなければならない。


【庶民の手に届く出費でモノラル録音を堪能する】
21世紀に入ってこんなにもコンテンツが豊富になったモノラル録音を、本格的なオーディオ機器で聴きたいと思っても、肝心のモノラル専用オーディオ・システムなるものは、どの店に行っても売っていない。あってもモノラルLPを再生するためのモノラル・カートリッジがあるぐらいで、アンプからスピーカーまでモノラル専用の機材など売ってはいないのだ。これは今にはじまったことではなく、1960年代初頭には大型のモノラル電蓄は製造しなくなっており、残ったモノラル音響機器は、卓上プレーヤー、ラジオ、ラジカセといった小型の家電製品のみで、安かろう〇×△□☆~の連発で、本格的なHi-Fiオーディオには不向きだとされてきた。


ステレオ以前のモノラル音響機器には豊富な選択肢があったのだが…今は全く見かけない

モノラル録音で古さを感じさせないオーディオ機器の基本中の基本は、AMラジオ=ボーカル域の100~8,000Hzという周波数レンジで充実したサウンドを叩き出すことだ。AM放送など聴くと、立派なステレオよりも古いラジカセのほうがアナウンサーの声が自然で良い音で鳴るが、それには理由がある。それはラジカセに付属しているスピーカーのタイムコヒレント特性(波形の時間的整合性)が素直で、波形が整って一体感が出るからである。逆に立派なステレオのほうはボーカル域が重低音に足を引きずられ、高域のパルス波は支えを失って空中分解して、高域不足でモゴモゴした声になる。このラジカセの自然なタイムコヒレント特性をそのままに30cmクラスにグレードアップしたのが、ジェンセンのPAスピーカーを中心とした我がモノラル・システムである。ちなみに私の2wayモノラルスピーカーの特性をみると、ツイーターの役割はかなり控えめで200~1,200Hzを中心に両端はロールオフするカマボコ特性だが、インパルス特性は100~6,000Hzがスマートな1波長に整っている。ボーカルは腰つきが判るぐらいにスウィングし、生ドラムはドカッと一気に押し寄せ、ベースは音程もリズムも明瞭に刻む。これがモノラル時代の人たちが日常的に触れていたサウンドの本領である。ジェンセン・スピーカーのポテンシャルは計り知れないのだ。


周波数特性(斜め45度計測)

インパルス特性

音調を整えた後のJensen C12R+Visaton TW6NGの周波数特性とインパルス特性


一方では、モノラル録音のほうは時代ごとの録音規格の変化がはげしく、1910年代までの最も古いラッパ吹き込みは200~4,000Hz、1920年代からマイクを使った電気録音になって100~6,000Hz、1930年代にラジオ放送開始後のワイドレンジ化で50~10,000Hz、1950年代にFM放送とHi-Fi規格の登場で50~15,000Hzという変遷をたどっている。しかしよく見て欲しい。その周波数バランスをみると、1940年代まではラッパ吹き込み以来の200~4,000Hzの周辺をウロウロしていることが判る。つまりボーカルの再生を無視したスピーカーは、スピーカー足り得なかったのだ。

1926年に登場した電気録音(100~6,000Hz)とラッパ吹込み(250~4,000Hz)の比較

1949年にLP盤発売とFMi放送をにらんで展開したモニタースピーカー
(100Hz以下は-10dB/oct、5kHz以上は-6dB/octでラウンド)


ところが、現在のオーディオ理論は、定位感や音場感を優先するため、ボーカル域の何かしらを犠牲にしながら、超低音のグランドノイズや超高域のパルス波を強調するように設計される。もちろん行き届いたデジタル録音はそういう音響成分を多分に含んでいるのだが、モノラル時代の録音は実音だけで収録されたものが多く、むやみにレンジを広げたところで楽音とは関係なくコントロールされていないノイズ成分が増えるだけになる。結果的に雑然として天井の低い遠鳴りしたような感じに聞こえるのである。モノラル録音を正常なバランスで再生できなくても、古い録音だから高域不足なんだとか適当に評価を下せばいい。そんなことが平然と行われているのが現状である。こうしてオーディオの基本となるボーカル再生に必要な帯域内で、時系列的にフラットではないことが原因であることに、気付くことがないまま放置されているのである。

モノラル録音に対応できる周波数帯域のバランスが悪い設計
左:350Hz以上で一貫性が強く中低域以下は2ms遅れで反応(低域不足でガチャガチャ鳴る)
右:3kHz以下で一貫性が高く中高域以上は鋭いパルス波に特化(高域不足でこもった音になりやすい)


このため、モノラル再生に耐えうる本格的なオーディオ機器の製造期間は1950年代までに限られ、ビンテージ機器として高値で取引されている。しかし、高級なビンテージ機器はアナログのLP盤を再生して最高の音が鳴るようにできており、これまた高騰し続けるアナログ盤を買い集めなければ宝の持ち腐れになる。その逆のこともあり、貴重なレコードのコレクションも再生できるオーディオ機器がなければどうしようもない。レコード・マニアとオーディオ・マニアの骨肉相食む争いは昔から絶えないのだが、この道楽に喰いつけるようになるには金銭的な課題も多いのだ。しかも、ビンテージ機器にはコンディションの良し悪しが判るような目利きがないとダメだし、分けも判らず百万円単位で投資するのは敷居が高すぎる。ビンテージ機器は買ってポン置きで良い音では鳴らない。適切な音量と部屋の響きとが馴染んではじめて本領を発揮するのだ。ベテランの多くはフルレンジから出発して、最適なバランスを予め熟知してから大型システムに挑むが、レコード蒐集と並行して10数年の年月を捧げる覚悟がないと、道半ばで行き倒れになる修羅の道だと心得るべきだ。

レコードが先かオーディオが先か…どこか迷路に迷い込むようでもある

しかし、金銭的に注ぎ込んだ量=愛情を注いだと言えるのだろうか? 庶民には庶民のモノラル録音の愛し方があったし、それはただ貧しいだけのものではなかった。なぜなら、庶民の生活のなかに入り込むことで、ポピュラー音楽が文化となり豊かになったからだ。そこで、21世紀に入り、これからモノラル録音を聴いてみたいと思う人には、デジタル音源でも良い音で堪能できるように整えるべきだし、かつてビギナーが歩んできた中庸なシステムを用意すべきなのだ。そしてそれはジュークボックスのような商用機器でも、リーズナブルな価格で提供されていたのだ。

私はこの課題に対し、以下のようなルートでオーディオシステムをモノラル化する方法をを提案している。
CDを始めとするデジタル音源を活用する
・新品で手に入るオーディオ機器を選ぶ
・誰でも手を出しやすいコストに抑える


モノラル化のみに必要な機材をリストにすると以下のとおりである。

機材 メーカー・機種名 価格
デジタル再生機器 ラックスマン製CDプレーヤー
イコライザー&リバーブ ヤマハ MG10XU \27,000
ライントランス サンスイトランス ST-17A \1,100
チャンネルデバイダー ベリンガー CX2310 \18,500
ステレオアンプ デノン製
ウーハー Jensen C12R \8,300
ツイーター Visaton TW6NG \2.300
スピーカー箱 後面解放箱
\57.200+α



曲がりなりにも30cmクラスのチャンデバ付のマルチアンプ・システムだが、CDプレーヤーやアンプなど基本的な機材を差し引けばおおよそ6万円でモノラル化は間に合う。ジェンセンのPAスピーカーはその核心にある事物なのだ。



【ジェンセンをジーンズに喩えてみた】


ここで私は、ジェンセンのPAスピーカーの魅力を何に喩えようかというと、タフでありながら普段着として普及したジーンズと似ているとようやく気付くようになった。これはクラシックやジャズというよりは、ブルースやロックに相性の良いこととも関連しているのだが、雑味があっても活きのいいジェンセンのサウンドは、まさにタフで活動的なジーンズと一緒の軌道を歩んでいるようにみえるのだ。

【ジーンズがファッションになる前は】
ワークウェア(作業着)についていうと、それはまずもって裸の人間が自分の体を守るための実用性を重視した服であり、丈夫なデニム生地を使ったジーンズが有名だ。19世紀半ばにゴールドラッシュの採掘現場で破けにくいズボンの受容を嗅ぎ取ったレヴィ・シュトラウスの話は伝説と化しているが、金採掘の後も続く鉄鉱石の鉱山労働者、さらには蒸気機関車の石炭をくべる火夫まで、服が破けたりしやすい現場では、デニム生地のズボンとジャケットは作業着として必須のものであった。これは汚れたり溶接工やリベット打ち、大工や塗装工など、火花やペンキで服が焦げたり汚れやすい作業につく人たちにも同じであった。


ゴールドラッシュ時代以降、純粋な作業服として知られたデニム生地

ジーンズがそうした実用的な作業着からファッションとして認識されたのは、映画「駅馬車」のような西部劇でコスチュームとしてジーンズが取り入れられたことに起因する。すなわち、タフなジーンズとその機動性は、アメリカの開拓精神を象徴するかたちでインプットされたのだ。Levi'sもLeeもウェスタン・カントリーの定番衣装として広告を打ったが、それでも1950年代までは、ジーンズが普通の人々のファッションに取り入れられることはなかった。ジーンズがファッションとして取り入れられたのは、ジェームス・ディーンやマーロン・ブラントが主演となった映画によることが多く、西部劇の荒くれ者が着るコスチュームから、都会に住む労働者たちのタフな生き様を象徴するアイコンとなった。ジーンズはここにきて初めてカッコイイと認識されたのだ。その後のジーンズの流行は推して知るべしである。


「駅馬車」ジョン・ウェイン(1939)、「乱暴者」マーロン・ブラント(1953)
ボブ・ディラン(1963)、オールマン・ブラザーズ・バンド(1971)


では、昔のミュージシャンがジーンズを履いてステージに立ったかというと、意外にもブルース歌手からロカビリーバンドまで、基本的にスラックスとジャケットというのが通例であった。例外的に「歌うブレーキマン」として活躍したジミー・ロジャース(実際に父の代から鉄道員だった)が居るだけで、安い作業服姿でギターを抱えるなど、お金をもらって演奏するプロには考えられないことであったし、同業者でクラブバーに出入りするジャズメンと比較しても見劣りすることは避けたいことであった。その意味では、ウエスタン・カントリーのバンド、さらにはフォーク・シンガーのほうが、労働者の服装に対する同調が早かった。ウェスタンはカウボーイより前のゴールドラッシュ時代からのルーツがあるし、フォーク歌手はニューディール政策のように肉体労働を政治的なパワーとして再認識することで「国民的」という立場を正しく表明することができた。つまりジーンスは開拓精神と肉体労働の象徴であったのだが、それを音楽や歌に載せるには、その生き様を同情以上のカッコイイまで昇華しなければ巧くいかなかったのだ。


ジミー・ロジャース(1931)、カントリー歌手(1950年代)
ジーンズとバスケット・シューズとドーナッツ盤(1960年代)


【ジェンセンのPAスピーカーとジーンズを比べてみた】
私の愛機であるJensen C12Rをみてみると、ジーンズと似てなくもない部分が多々ある。これは工業製品によくある安上がりで合理的な仕立てというもので、言いようによっては張りぼてのようなものである。
見えない部分でジーンズと似ているのは、ジェンセンのPAスピーカーはエージングに時間が掛かることで、新品で買った後で普通に毎日2時間程度聴いて2年ぐらいで音質が落ち着いてきた。今は9年の歳月が経っているが、全く印象が変わることなく元気なままである。ジーンズが擦れや洗いざらしで色落ちしていく味わいが判る人は、買いたてのジェンセンのユニットが1~2年掛けてエージングしていく過程について、それほど苦も無く待ち続けられるはずである。

Jensen C12R Levi's 501


コーン紙に糊付けした継ぎ目がある

縫い目は黄色の糸

エッジはコーン紙と同じ材質の硬いリブ構造

後ろポケットは同じ布地のパッチ当て

センターキャップはフェルト布を貼り付け

前ポケットの裏地は薄いコットン布


一方で、ジェンセンとジーンズの関連性に気付くのに遅れた理由としては、ジーンズが1960年代のカウンターカルチャーと共に世界的に流行したのに対し、ジェンセンはむしろ役割を終え廃業してしまった点にある。つまりジーンズがエンターテインメントの檜舞台に昇る準備段階の時期に、ジェンセンは活躍していたことになる。このため、ジェンセンのPAスピーカーが第一線で活躍していた時期は、ビートルズ以前の音楽であり、その時代のブルースやロカビリーの音質についてちゃんとした情報がないことである。それもそのはず、シングル盤といえばモノラル録音が当たり前、45rpmのドーナッツ盤ではなく78rpmのシェラック盤を差す場合が多く、再生機器もSP盤に対応した太い丸針でないとダメだとか、コレクターの層も一気にしぼむのが実情である。このSP盤からステレオへの音質の違いが大きいため、音楽そのものも発展史のように捉えられ、パフォーマンスを平等に評価する体制がどうしても遅れがちなのだ。

乾いた音のするギターを弾きながらダミ声で叫ぶブルースは、画質の悪い新聞の切り抜きを見ているようであり、オリジナルネガのプリントだったらどうかと想像しながら鑑賞することにならないだろうか。ワンステップ、ツービートなど単純なリズムでも生き生きと飛び跳ねて聞こえないようなオーディオ環境をもたない人にとって、古いロカビリーはアレンジも単調で刺激のない退屈な音楽に聞こえるだろう。ジェンセンのPAスピーカーは、まさにこの足りない部分を補うために存在したのだ。つまり潤いのあるサステインがコーン紙から染み出るように設計され、リズムの切れを良くするためにフィックスドエッジの機械バネでダウンステップを明瞭にする。どちらも現代のオーディオ技術では原音を汚す行為として御法度になる要素なのだが、計測機で調べた机上のスペックではなく、数多のステージで勝ち取ってきたサウンドであることがジェンセンの強みである。

New Deal Photography: USA 1935-1943

大恐慌時代の貧困対策として始まったニューディール政策の役務者家族を写した写真集で、600ページにもわたる大著でありながら、あまり細かい説明をつけず、ひたすら人物写真で押し通す。ドイツ語版と書いてありながら英語、フランス語も一緒に書かれているバイリンガルである。
なぜここで取り上げるかというと、ジーンズが完成形に近づいた1940年代までの時期で、西部劇で知られる以前の姿で、ジーンズがちゃんとワークウェアとして使用されているからだ。それ以上に魅力的なのは、衣服は最低限の貧困にさらされながらも、白人も黒人も皆そろって健康的な顔を絶やさず写っていることである。あるいは肉体労働が過酷なものでなく、救済的なものであるという政策的な意図も左右しているかもしれないが、現地入りした写真家が哀れみの目ではなく、同じ人間の尊厳をしっかり捉えようと、丁寧に言葉を交わしていたことが伺われる。
現在でもナショナル・ジオグラフィックのカメラマンが人物写真で大切なこととして、カメラマン自身が被写体を大切に思っていることを知ってもらうコミュニケーションが大切で、そこで初めて打ち解けた普段の姿が撮れると、良い写真のコツについて話していた。そうした鉄則は、こんなところにも生きていたのである。


Juke Jointで踊り明かす青年たちとMedicine Showの人形劇の呼び込み

トラックの荷台でふざける子供たち、納屋の入り口に立つ少年

Mississippi Juke Joint Blues (9th September 1941)

上記のニューディール政策の舞台のひとつであった、1941年のミシシッピ州コアホマ群クラークスデール市の黒人たちが集う5つのジューク・ジョイントにあったジュークボックスに詰まってたレコードのリストに載っていたSP盤を集めたコンピレーション・アルバム。場所が場所だけに素朴なデルタブルースを集めたものかと思いきや、はるかシカゴやニューヨークのジャズバンドを従えたブルースがどっさり詰まっていた。なので聞き流すと当時のラジオ番組を聴いているような錯覚に陥る。この手の復刻盤は音質の悪いことが多いが、これは愛情をいっぱい注いだ良質な復刻である。
これと、10年後のメンフィスのサン・レコードの録音群と比べてみると、エレキギターが入った程度で、ロカビリーが突然変異ではなく、1940年代と地続きの関係にあるこという当たり前の事が判る。シカゴやニューヨークでやがてロックンロールが更盛を極めるのとは異なり、アコースティック楽器で展開されるブルースの幅広いアレンジが聴けるのは、単純なメロディーから生まれるポピュラー音楽のもつ生命力についても思いをはせるだろう。


我が日本とドンパチやってた時代の音楽なんて犬も喰わないだろうと思うだろうが、黒人音楽(とはもう呼んではいけない)の幅広いジャンルは、むしろこの時代のことを抜きにしては語ることが難しくなっているだろうと思う。ただこれまで1940年代の発展史が中抜けして全体像の把握そのものが難しかったのは、アメリカ国内でも物資不足でレコードの出版が規制され、その一番のあおりを食ったのがレイス・レコードでもあった。そこで例のごとく規制の壁を越えるべく、表向きはレコード店には並ばないが、ジュークボックスにのみ供給された盤も少なくなく、リリースされたカタログ番号を持たない形で存在する録音が多くあった。なので、ディスコグラフィで辿るポピュラー音楽史は、戦後に急激にブルースがエレクトリック化し、ロックやR&Bへと花開いたかのようになるが、実際には太平洋戦争の時期に試行錯誤を繰り返した準備期間のあったことが判る。
これはジーンズに関しても同じで、西部劇やカウンターカルチャーのメディア戦略に乗った時期と、実際のワークウェアとしてのジーンズの魅力を前史として語ることの難しさを伴っている。つまりボロボロでカッコ悪い労働の実態を正視できないままなのだ。服が破ける=身体の傷が増えるという単純な計算が成り立つ現場の窮状を救ってきたのがワークウェアとしてのジーンズであり、何を引き換えに働いているかの安全性が機能性そのものなのだ。その労働は健康であるべきで、その健康を守る服がワークウェアなのだ。健康や命を引き換えに冒険するようなことは必要ないし、それを脇からみて面白おかしく論じるようなものでもない。ジーンズは労働という生きる手段のなかで危険と背中合わせに生活せざるを得ない人々の願いそのものなのだ。
ジェンセンはそうした労働者が集う場末のバー(ジューク・ジョイント)で、衆目を納得させる機能性をもっていたというべきであろう。その機能性とは、音楽におけるパフォーマンスという労働力を、フィジカルな存在感を保ちつつダイナミックに再現する筋力である。自宅でコンサートホールのS席の音響を再現するなんて、馬鹿げた妄想に延々と付き合うことの無意味さは、ジェンセンが教えてくれるだろう。ジェンセンはただのリプロデューサー(再生装置)ではない。切れば血が出るような生音のせめぎ合う瞬間を体感する装置なのだ。ここで根本的にジーンズとジェンセンの立ち位置の共通点が見いだせるだろう。趣味性に基づくファッションでもオーディオでもない、実用性のなかで磨かれた感性があってこそ、その存在が生きてくるのである。

【私なりのワークウェアの着こなし】

さて、色々とジーンズについて語ってはみたものの、自分自身はジーンズのコレクターでも何でもない。私が最近マイブームで楽しんでいるのが、アメカジの素材を掻き集めて19世紀末のオールド・アメリカンの紳士服に仕立てることだ。最近はオフィス・カジュアルなどと称して、東京の丸の内周辺でもノーネクタイのジャケパンという感じがほとんどなのだが、どうも自分などのように老年を迎えてくると、カジュアルはただひたすらに、だらしない感じのオジサンになる。かといって数十万も掛けてオーダースーツを着込むほどの器量も稼ぎもあるわけではない。そこで若者向けのストリート・ファッションに離散していったアメカジ素材を、オヤジの身だしなみに再構築しようと思ったのだ。これは別に新しい試みではなく、むしろカジュアルに脱構築した服飾文化を元のルーツに戻す作業に徹すると、ここまでフォーマルな雰囲気になるという事例を示したかっただけである。むしろ世にいうファッションの流行のなかに、自分に似合うファッションのみつからない、昭和のオヤジの意地と根性の記録でもある。

「おやじ」といえば、ハゲ、デブ、加齢臭の三大老化現象に悩まされるのが大半だが、実はおしゃれ(身だしなみ)のほうも著しく質が下がってくる。というか40代後半から一気に断崖絶壁のような状況に陥る。なぜか? それは背広以外におしゃれに投資する術を学んでいないからだ。ところが、2005年以降にはじまったクールビズでのノーネクタイから次第に紳士服の牙城が崩れ出し、今や丸の内近辺を歩くほとんどのサラリーマンはスマートビズの平服で闊歩している。スーツにノーネクタイは並の上、ジャージーのセーターに黒地のジーパン、スニーカーでリュックサックなんて、時が時ならアキバでウロウロしていたようなオタクルックで戦場へ行進する人もチラホラ。で、何でそういうことを気にするのかというと、これまで作業服を着て工場勤務していた人間が、55歳になって転職して東京駅を跨いで通勤するようになって、はて?何を着ていこうか?という疑問そのものなのだ。

あらためて自分の身になって考えると、出世しない50代男性というのはブラックホールのように存在が薄くなっていて、まさに年金受給年齢までの繋ぎ世代と思われている点だ。会社のなかで出世が望めない大半の人にとっては、現役バリバリのようには働けず、さりとて部下を大勢引き連れ利益をまとめる役周りでもない、意外に難しい役どころである。私の場合は、それまで専門職だった部署から引き離されて、にわかDXのバックオフィスに転じたのを契機に、元の専門職で知り合った顧客の会社に引き取ってもらったので、残りの10年を何とかしようと考えられるのだが、それはたまたま自分で思っている以上に巧くいった事に過ぎない。今でも薄氷を踏んでいるのではないかと色々と考えている感じでもある。

で、その「危うい世代」のなかにあって、社会生活に踏み出すための衣装というかコスチュームなのであるが、スマートビズで闊歩する30代~40代に交じって一緒に競争するつもりはあまりない。白髪で猫背の老年期の男が、Tシャツにジャケットなんて、良くても「寅さん」ぐらいの雰囲気しかでない。ただただクタびれた感じにしか見えないのだ。それも生まれも出身もない中途採用のおやじのことなど、いちいち誰も気に留めないだろう。

そこで私なりに面白いと思ったのは、19世紀末アメリカ人のスーツ姿である。イギリスの場合は階級制度がまだ明確に残っていて、身分相応の身だしなみがあったが、この頃のビジネスマンはまだ金融業界と法律家の人たちだけで、エンジニアでスーツを着ているのは職人たちを取り仕切る親方か社長だけである。しかし身分制度が崩壊したアメリカに目を転じると、自営業の店主からギャングの一味まで皆スーツを着ている。しかも写真にうつること自体がかなり自慢できることだったらしく、皆堂々とした出で立ちで写っており誰もカッコイイのだ。この起源を辿ってみると、貴族たちのモーニングやイブニングスーツ以外のシチュエーション、たばこ部屋やちょいと一杯引っ掛ける(ついでに女の子も?)などの機会に着る、やや非正規の御しのび服であったラウンジスーツにあったらしく、もっと言えば狩猟やゴルフなどの野良でのスポーツに適した動きやすく汚れが目立ちにくい服装(現在ではカントリースーツと呼ばれる)であった。つまり貴族が着て外を出歩いても恥ずかしくない衣装というランクだったのだが、ヴィクトリア朝のファッションに敏感だったアメリカでは、大陸横断鉄道の整備もあって通販で最新の流行を手配することができたせいもあり、紳士淑女のドレスマナーというのが一般化していた。馬子にも衣裳という言葉をそのまま地で行っている様相である。

19世紀末のラウンジ・スーツ(お散歩用)

しかしてその堂々と写真館でポーズを取る男たちの年齢は?というと、おそらくほとんどが30代であったという。今でいうと50代くらいに見える老け顔の人も多いのだが、人生50年と言われた時代、働く年齢も16~45歳という感じで数えると、30代で写真代が支払えるということは、それなりに成功した人生の一番良いときの姿ということが言えよう。その意味では、現在のサラリーマンは当時よりも5年遅く就職し20年長く働くこととなり、50歳で隠居して第二の人生なんて気長なことなど言う暇もなく働き続けることになる。いくら医療環境が良くなったとはいえ、生物学的にも人生設計を見直さないと、年代に合った働き方などできないのだと思った。単純に言えば、立身出世型の人生プランなど夢に描かないのが賢明だということなのだ。そこで19世紀末の西部開拓のスーツ姿がカッコよくみえたのは、その後に迎えるであろう老年期を現実に見据えたルックスの隙のなさなのであった。そのまま白髪になっても問題ないようにできている。

では、そのスーツが加齢に負けない輝きをもっているのは、実はこの時代に買えるスーツというのは、人生に一着だけであって、写真にうつっているのはそれを買える機会を迎えた人生の最盛期の姿であると思われる点である。リクルートスーツでもなく、スマートビズのジャケパンなどでもない、人生の終わりに着ても古びないデザインを想定していたといえる。30代からスーツを着始めて50歳で人生を終える間が、精々15~20年間であることを考えれば、服の寿命としても想定内だといえよう。そういう意味でも、人生の節目に立ったときの出で立ちというのは、それなりに考えなければいけないようにも思うのだ。山田洋次監督の描いた寅さんがあれほど愛くるしいのも、そもそも成立しないマドンナとの恋心もあって、後戻りのできない人生の切なさが全編に漂っているからである。しかしそれは台本と演技力あってのもので、誰でも巧くいくはずはないのだ。

実は50代60代のサラリーマンには、自然に枯れていく人生と同じ時間をゆったり過ごせるコスチュームが足りないのだ。誰もが「若い人に負けない」という意気込みばかり語り、同等のバイタリティを要求する服装を勝ち組衣装として提供するが、似合うのはパワハラおやじだけ、なんてオチも感じる。例えば、英国貴族のラウンジやカントリーのコスチュームは、ほとんどが余暇のためのものである。つまり、何でもない自然人のままを満喫するためのものであって、それでお金を儲けたいとか全くのナンセンスで、何よりも他人にリラックスした雰囲気を感じさせるべきだ。

そこで思い付いたのが、同じジャケパンでも19世紀末の工場務めの人たちの出で立ちである。労働者階級の多くは古着を利用しているので、サイズも色も不揃いなのだが、スリーピースの服を着て、実に堂々と胸を張って写真に写っているのが判る。やや奇異に映るのは、大恐慌時代の炊き出しを受ける人々で、立派なスーツと帽子を被っているのだが、おそらく職も住まいも失って、着の身着のままの人たちが多くいたことが伺える。しかしそのようなときでさえ、しっかり背筋を伸ばしている姿をみると、人間であることの尊厳は衣装からはじまっていることが判る。




では、個々はアメカジのアイテムなのに、組み合わせると立派な労働者の成りに近づける方法について、私なりの作戦をいかに述べよう。

◆ペインターパンツ(+サスペンダー)
チノパンならテーパードが主流なのだが、ストレートでもワイド寄りのズボンを選ぶのは、建設業をやってる関係上、新幹線や飛行機での出張でブーツ型の安全靴を履いていくからである。デニムパンツと同じ厚手のコットン地のパンツなのだが、色はダックブラウン、モスグリーンが好きで、変わり番子で履いている。ちなみにダックブラウンはLevi's 565ワークパンツのダブルニー、モスグリーンはフランス軍M47カーゴパンツの後期型で、いずれもレプリカで値ごろ感の高いものである。サスペンダーを併用すると、腰まわりの高さが安定して、ダブッとしたルーズさが解消される。

◆イングリッシュ・カントリー柄シャツ、ヒッコリー柄シャツ
単品だったらゴルフウェアのようにカジュアルになりやすいが、狩猟用のカントリー風にまとめると、意外にシックな感じに収まる。ヒッコリー柄もベストと合わせて着ると、引き締まった感じになって面白い。カントリー柄はポロBCS、ヒッコリー柄はしまむらディッキーズで、やはり安価に購入できた。


◆テーラードジャケット
どうも肩パッドの入ったドレスジャケットが苦手で、秋冬用に尾州織のチェック柄(しわになりにくい)、春夏用にリネンやサッカー地のジャケットを2着ずつ持っている。紺ブレは若見えを気取りたくないので封印。

秋冬用


春夏用


◆ニットベスト、サッカー地ベスト
サスペンダーが好きなので、いつも付けているが、ジャケットを脱ぐとだらしなくなるので、ベストを着るようにしている。ベストを着ると、おなかからシャツが溢れてこないので、一石二鳥である。3ピーススーツに憧れはあったものの、揃いで買うと高価なのでなかなか手が出なかったが、冬用のニットベストは東京シャツで、夏用のサッカー地ベストは若者向けのものをネットで安く購入した。

秋冬用


春夏用


◆ニットタイ
個人的に好きなのがニットタイで、ネット通販で1000円ぐらいの安いものにもかかわらず、ベストと合わせるとシックに収まるので、夏でも冬でも構わず付けている。無地と縞模様のものを各々2本ぐらいもっている。

◆山高帽、カンカン帽、キャスケット
どうも白髪が目立ってくると、頭の色に合わせて服を選びがちであるが、帽子をかぶると服のデザインに自由度が増す。秋冬はフェルトの山高帽、春夏は麦わらのカンカン帽が基本だが、雨の日には豚革スエードのキャスケットを使っている。


さて以上の色々なアイテムを総動員すると、どうなるか? ストリート系でもジャケパンでもない、歴としたオールドアメリカン・スタイルの出現と相成るのである。ネクタイ、ベスト、帽子を省略せずに着こなすのがポイントである。


今どきのジャケパンスタイルよ、さらば! ようこそ、オールドメリケンワールド!
  靴:REGAL スウェード・チャッカ、パンツ:Levi's ダブルニー・ワーカーズパンツ
  シャツ:Polo BCS ストライプ柄ボタンダウンシャツ、ベスト:サッカー地サマーベスト
  ニットタイ:W&M、Ozie、帽子:Ritter 豚革スウェード・キャスケット、田中帽子店 鬼麦カンカン帽


1897 Sears, Roebuck & Co. Catalogue

1897年というと西部開拓時代というには遅いという感覚を持つかもしれないが、さすがにインディアンとの死闘を繰り広げるようなことがなくとも、荒野はまだまだ広がっていた。このシアーズ商会のカタログは、ゴールドラッシュの後に大陸横断鉄道も整備され、人も物も行き来が盛んになりはじめた頃に、街の雑貨店に卸していた商品のカタログである。アマゾンのように翌日配達というわけにはいかないが、かならず1か月以内には全米のどこにでも届けますというものだ。木ねじ1本、ストッキング1足から、ピアノや荷馬車まで、その時代に使われていた日用品の全てが取り揃えられた。ちなみに鉱山労働者の必要としていた、頑丈な革靴とデニムのオーバーオールはここにはまだ登場していないし、ワークウェアという区分もない。大工仕事から用心棒まで全て自己責任で行う時代の名残も感じられる商品たちである。


しかし、実際にオールドアメリカンのファッションというのは、時代的にゴールドラッシュ以降、第一次世界大戦以前という過度期のもので、例えば男性ファッション誌を賑わすアメカジやアイビールックのような方法論は存在しない。もっと本格的に復刻衣装を手掛けるセレクトショップもあるにはあるのだが、どうもお財布のほうがついていかないので自重している。さらに困るのが、革ジャンにグラサンのあんちゃんが出入りするアメカジショップに、ネクタイを締めて乗り込むには、かなりの勇気がいることだ。
結果的にはアレコレ足で稼いでいるのが現状で、自分に合った服をみつけるというのは大変なのだ。例えば、ジャスコやイトーヨーカドーなど百貨店の端っこにある「おじさん服コーナー」、Rite-onなどのジーンズ量販店、しまむらのチェーン店AvailのOEMブランド、ニットタイやサマーベストはアマゾン通販など、気になったときにウロウロすると見つかる感じ。ほっとくと時間ばかり過ぎていくので、こんな哀れなおじさんのコスプレに付き合ってくれる良い店がどこかないか探しているのが実情だ。

こうして見るとファッションとは想像力かと…つくづく思う



【働く道具としてのPAシステム】


【街頭でニッケルコインを稼ぐジェンセン】
さて、我が敬愛するJensen C12Rの生い立ちは、低コスト&バラック的に臨時設営されたPAシステムのなかで育ったものだ。例えば、都会の道端で歌うブルースマンしかり、通りすがりのドライブインに置かれたジュークボックスしかり、立派なコンサートホールでのPAとは全く違う、野趣あふれる魅力があるように思う。労働者相手に数セントのニッケルコインを掻き集めるそれは、どんな状況に置かれてもタフに鳴り響き、道具として働き続けることこそ第一の使命であるのだが、ただ大声で怒鳴り続ければ良いというものでもない、活力みなぎるパフォーマンスとして増幅する機能が備わっているのがジェンセンの魅力である。

1940年代シカゴのマックスウェル・ストリートとギブソンのGA50型ギターアンプ

ダイナーに設置されたAMI F120はタクシー風のデザイン(1954)

このどのような状況でもタフに拡声する機能性は、録音の品質に左右されずに音楽のエッセンスにクローズアップするという性格を持つ。スーツケース大の箱にアンプを詰めたジェンセンのエクステンデッドレンジ・スピーカーは、マイクやピックアップを繋ぎさえすれば簡易PAとして働きだすのだ。

ボーカルを拡声するために活躍したスーツケース型スピーカー(1930年代)

【人間の聴覚は人の話す言葉に特化している】
それでは音楽のエッセンスとは何であろうか? それは人間の声と耳の関係を考えれば明らかになる。つまり人間が生まれて以降に身に付ける言葉とコミュニケーションの関係が、そのまま音楽における感動に結びつくのである。この点が動物と人間を一番隔てる音楽のエッセンスとなるのだ。

人間の言語の発音周波数(母音0.2~3kHz、子音は1~6kHzと複雑に組み合わされる)

ジェンセンが1910年代に街頭演説のような人間の声の拡声に始まり、1930年代のクルーン唱法、1940年代には小規模のブルース・バンドに広がったのは、人間の心の奥底を灯し続ける言葉の拡声に正面から向き合ってきたからである。超高音でも重低音でもない、人間のボーカル域の拡声に特化したのが、ジェンセンのPAスピーカーの歩みそのものであると言っていいだろう。
ジェンセンのPAスピーカーは、そのアメリカ的な風土や血筋のようなものを培うまでに、特に目新しい技術や斬新なキャッチコピーで攻め立てることはしていない。それはオーディオ技術の進化として語られる再生周波数の拡張主義とは大きく異なるものでもある。優性遺伝的な進化という言葉よりも、クルーン唱法、シカゴ・ブルース、ロックンロールなど、突然変異的に電気拡声器を用いた新しい音楽ジャンルを次々に生み出していったと言え、20世紀前半のジェンセンの歴史はアメリカ音楽の歴史そのものと言って過言ではない。それでいて、ジェンセンのPAスピーカーは、技術的に新しいことは何一つしていない、むしろ拡声器として保守的ともいえる必要最低限のスペックを保持した。これは電気技術の機能に隷属的に従うというよりは、ミュージシャンのもつポテンシャルを一段上に引き上げることに終始していたことを示している。実は拡声装置とは、人間のもつパッションをも増幅するような、壮大な夢の実現に寄与するのだが、それを創業当初から着実に成し遂げてきたのがジェンセン・スピーカーの凄さでもあるのだ。

しかし、ジェンセンのPAスピーカーはけして高級品というわけではなかった。それはジーンズやスニーカーがアメリカ人の民族衣装のように思われているのと同じぐらい、日常的かつ庶民的な物なのだ。あるいは歩きながら食べられるハンバーガーやホットドッグ、映画館でお馴染みのコーラやポップコーンのようなものと考えるのもいいだろう。ジェンセンのPAスピーカーはジュークボックスやエレキギターのように、どこでも聴こえてくるものであったがゆえに、特定のブランドというよりはロカビリーやロックンロールという音楽ジャンルとして認識されたのである。
私は自分のオーディオ・システムで、Jensen C12Rをメインスピーカーとして使用して9年経つが、これぐらい時間を経ると普通のオーディオ機器だと劣化も目立ってきて、新しいものに比べスペックが見劣りするのだが、ジェンセンには全くそれがない。むしろ音楽への理解が深まる一方で、今では失われたミッドセンチュリーの空気感のようなものが、なんのストレスもなく飛び込んでくる。それはまさに70年近く前にマイクで吹き込んだ音が、そのままスピーカーから鳴り出して部屋を満たすかのように思うぐらいである。ステージでミュージシャンのもつポテンシャルを一段上に引き上げる機能は、時代の壁をも越えていくポテンシャルをも付与するのだ。それがジェンセンが目指した拡声器のスペックなのだと確信するようになった。

【人の声の拡声に特化したエクステンデッドレンジ】
我が敬愛するJensen C12Rをはじめとするモノラル時代のウーハーに相当するものは、エクステンデッドレンジと呼ばれる規格に沿っていた。これはボーカル域となるAM放送やSP盤の音声周波数(100~8,000Hz)をカバーできるようにしており、Hi-FiレコードやFM放送を再生するときにはツイーターを追加して対応した。さらにエッジはコーン紙と一体化したフィックスドエッジで、これはラジオ用の小さい出力のアンプでも躍動感のある音が出せるように、音を出したあとに機械バネの作用で瞬時に戻してくれる作用がある。この機械バネはスピーカーの機械的なインピーダンス(Qts)も高くしており、これは空気抵抗の少ない後面解放型の箱を前提につくられている。そのかわり重低音はそれほど伸びず、スペックだけみれば10cmフルレンジと同じような低音しか出ないが、200~4,000Hzのボーカル域が一丸となってダイナミックに躍動するサウンドが得られる。これはスペックだけでは分からないが、音楽的な表現の違いとなって現れる。過去にはJBL D130など、高級なエクステンデッドレンジ・スピーカーが発売されていたが、現在ではギターアンプ用に製造されているJensenのビンテージ・シリーズがこれに該当する。しかし最も安いJensen C12Rでさえも、Rock-ola、Seeburg、Wurlitzerの三大ジュークボックスメーカーの覇者であった。つまりJensen C12Rはプロ用エクステンデッドレンジ・スピーカーの入門機でありながら、最も普及したユニットということになる。


ところが、モノラル時代の大口径エクステンデッドレンジは重低音を出すためではなく、まず第一に人間の声をリアルに表現することを大事にしている。大口径であるべき理由は低音の増強のためではなく、200Hz付近までコーン紙のダイレクトな振動で音が鳴る点だ。コーン紙を平面バッフルに見立てて最低周波数を計算すると、10cmで850Hz、20cmで425Hz、30cmで283Hzとなり、喉音、実声、胸声と次第に下がってくる。あえて言えば、唇、顔、胸像という風に声の描写の大きさも変わってくるのだ。それより下の周波数は、エンクロージャーの共振を利用した二次的な輻射音になる。小型フルレンジでは胸声が遅れて曖昧に出てくるため、表現のダイナミックさに欠ける。このボーカル域の要件を両方とも満たすのが、古いPA装置に使われていエクステンデッドレンジ・スピーカーだ。喉声以上の帯域に対し遅れを出さずに胸声までタイミングが一致して鳴らせるようにするため、高域を多少犠牲にしても、スピーカー径を大きくすることで自然で実体感のある肉声が聴けるのだ。よくスピーカーの再生能力としてフルボディという言葉が使われるが、モノラルの場合はスピーカーそのものの大きさが等身大であるべきだと思っている。


人体の発声機能と共振周波数の関係


もうひとつエクステンデッドレンジで重要なのは出音の瞬発力で、これは計測器などまともに無かった時代において、生楽器と直接比較して音響効果を切磋琢磨していた時代のPA機器の本当の実力でもある。Jensen社のエクステンデッドレンジ・ユニットはギターアンプ用で壮大な歪みを出すと思われているが、第一波の波形は素直で乱れがないのである。さらにフィックスドエッジの機械バネで反動を抑え、Qoの高いダンピングの効いたユニットを後面解放箱に取り付けて、スレンダーに収めている波形は、低音でのダブつきをタイトに抑えてくれて、下手な密閉型ヘッドホンよりもリズムの分解能がずっと素早くインテンポに進む。これはジュークボックスのように草の根に広がり、オーディオに関してはズブの素人だった人々でも判るアキュレートな反応でもあった。

自宅のJensen C12R+Visaton TW6NGの美麗なタイムコヒレント特性
(上:インパルス、下:ステップ、どちらも手足がピンと伸びた10.0)


【¢10で買えるひとときの夢】

アメリカに高級電蓄がそれほど数がないのは、ジュークボックスが全土に広まったからである。これも30cmクラスのエクステンデッドレンジを中心に巡っていた。ジュークボックスのメーカーによって大口径エクステンデッドレンジの使い方も様々だが、試聴位置の決まっている家庭用の周波数レンジだけに注目したユニット区分ではなく、商業施設の広いエリアでの音響効果を狙ったギミックな組合せであり、Jensenのユニットは12インチという大口径にも関わらず概ねミッドレンジ用のユニットとして認識されていた。Rock-olaは素のままのJensenの音調だが、Seeburgは8インチフルレンジを基調にしてミッドローを補強した仕様、Wurlitzerはさらに低音をゴージャスに広げたワイドレンジ型であるが、これはMagnavoxの2wayにJensenが割って入ったような仕様である。

Rock-ola TempoII Seeburg KD Wurlitzer 2500
mid:2x12inch Jensen
high:1xHorn Jensen
low:2x12inch Utah Jensen
high:2x8inch Utah Jensen
mid:1x12inch Jensen
low:1x12inch Magnavox
high:1x7inch Magnavox


私の使用しているJensen C12Rは、1960年前後のRock-ola社をはじめとするジュークボックスで定番のように採用されていたユニットで、今でこそギターアンプ用のスピーカーとして知られるが、開発された1947年は汎用のPAスピーカーとしてあらゆる業務用機器に搭載されており、これなくしてはロカビリーやR&Bはあれほど盛り上がらなかったと思えるくらい活きのいいサウンドを叩き出す。1960年代半ばを最後にJensen社は事業撤退したが、イタリアSica社が1996年から復刻生産をはじめ、この手のユニットとしては一番安価でしかも新品で手に入るユニットのひとつである。

Jensen C12Rは多くのジュークボックスで使用された(Rock-ola Capri, 1963)


ジュークボックスの語源となったJuke Jointで踊り明かす若者たち(1940年前後)



【昭和のド根性モノラル】


ここまで当たり前のように書いている、スピーカーで音楽鑑賞するという方法だが、21世紀に入ってほとんど忘れられている。昔もそうだったが、RCA端子の接続はおろか、アンプとスピーカーのつなぎ方も知らない人もいるのではないだろうか? そのかわり、スマホやステレオ・イヤホンなら誰でも持っているし、Bluetoothのペアリングなんて当たり前のように使いこなしている。私が悩んでいる時代の音楽も70~80年も前のものであり、ジェネレーション・ギャップどころか1世紀を越えるのも間近という、もはやアンティークの域に達している。つまりスピーカーで音楽鑑賞という行為は、昭和を生きたジジイの戯言のようなものなのだ。

そういう意味では、モノラル録音の鑑賞は危機遺産に属しているとも言える。だが、ジェンセンを通じて判るのは、音楽のダイナミズムは身体から湧き出るもので、頭で理解するようなものではないことだ。実際にジェンセン・スピーカーの音のキレのよさは、ヘタな密閉型ヘッドホンよりもタイトにリズムが刻まれるし、ドラムをドカッと蹴り上げる迫力はヘッドホンではけして出てこない。つまり、音楽は体感的に聴いてはじめて、血となり肉となるのである。実はこのフィジカルな音楽鑑賞を由緒正しく伝えるのがジェンセンのPAスピーカーなのである。単純に考えれば、店の片隅に置かれたジュークボックスの音が、どうしてあれだけ人々を夢中にさせたのかと問われれば、それはジェンセンのスピーカーを使っていたからだ。

しかし、ジェンセンのPAスピーカーが活躍した時代の音楽の聴き方は、レーシングカーのようにギリギリの極限までチューンアップされたものではなく、もっと大らかなスペックで使われていた。それゆえに全米の様々なシチュエーションにも浸透していったのである。では1世紀の時間を遡るパラレルワールドにご招待しよう。

【モノラルはレイアウトフリー】
昔ながらの本格的なステレオ機材を自宅に備えようとすると、壁一面をステレオスピーカーとオーディオラックが占拠することになる。そして部屋のど真ん中に特等席としてソファやリクライニングシートを設置する。いわゆるコンサート会場のS席での鑑賞を想定したのが、ステレオ用のリスニングルームの基本である。
しかしモノラル時代は状況が異なっていた。もっと生活空間に馴染んだものであったのだ。
まずモノラルスピーカーの聞き方であるが、ステレオのように正面に座って聴くのではなく、部屋全体に音が行き渡るようにして、斜め横から聴くのが正調である。これはShure社がステレオカートリッジの売り出しと並行して、正しいステレオ録音の聞き方を述べたガイドブックにも載っている。このモノラル音声の聞き方は、レコーディングやラジオ局のスタジオでも同じであり正式のものである。

Shure社1960年カタログでのスピーカー配置の模範例(モノラルは斜め横から)とモノラル期のBBCスタジオ

ただし写真でみるかぎり、Hi-Fi創成期にモノラル録音を聴くという行為は、実に大らかで自由だったことが判る。サッチモがお尻で聴いているのは、ステージ上のバックバンドとの演奏に慣れたアコースティックの再現だし、クリント・イーストウッドやマリリン・モンローが寝そべって聴くのも、スピーカーの音ではなく、部屋の響きを聴くことが、実は心地よい空間の演出となっている。ステレオのようにスピーカーの真ん前に陣取って聴く人の方が珍しいと思えるほどだ。


モノラル時代の大らかな聞き方


ジェンセンの戦略は常に斜め上を行く?
1940年代のモダン家具、1950年代のパーティーワゴン、1960年代のゴロ寝リスナー


また人間と等身大の立派なモノラル装置ともなると、家族の一員または気の合う仲間のように、単なる機械ではなく、一人のパーソナリティとして扱われている様子が分かる。現在のパーソナル化の進んだステレオ機器のように、コンサート会場とミュージシャンを独り占めするなんてことは、そもそも考えること自体がおかしな話だったのだ。モノラル録音の試聴方法は、こうした文化から学ぶ点も少なくない。

モノラルは孤高の存在ではなく大衆のオープンな賑わいを作り出していた

ちなみに我が家では、30cmクラスのモノラルスピーカーをディスクサイドに置いている。ステレオだと仰々しい大きさに思えるのだが、ちょうど人間が一人分、椅子に座っているようなスペースに収まる。これはル・コルビジュエのモデュロールをみても明らかなのであるが、一般家屋のスペースファクターは押し並べて人間の身体の大きさに最適にできている。
これを無理にコンサートホールのように錯覚させるのがステレオということになるのだが、ステレオだと壁一面を占拠し、なおかつ三角形となるように空間を空けなければいけない。6畳間でも狭いのだが、スピーカーの背面を含めて3π空間を空けるとなるとさらに難しくなる。
モノラルスピーカーでの試聴は、人間中心にレイアウトして心地よさが増すのだと思った。

ル・コルビュジエのモデュロールと自作スピーカーの寸法関係


【懐かしいラジオの音がするトランス】
CDの音を聴いて、安物のメッキをかけたピカピカの音だと思うだろうが、もちろんそれはアルミで出来たCDの見た目からくる印象操作である。CDが出たての1980年代から1990年にかけて、それまで10kHz以上はかなり怪しかったアナログ録音に対し、デジタル録音は20kHzまで均質なダイナミックレンジでフルカバーするという名目が先走りして、「デジタル対応製品」と銘打ったオーディオ製品が世に溢れた。もちろんこれも張りぼてで、ひどいリンギングで聴覚を麻痺させるハードドーム・ツイーターや、牛歩のような重低音で遠鳴りする新素材ウーハーなど、デジタル的と演出された音調がCDと共に現れた。しかし実際のデジタル・テープの音は、アナログのマスターテープに比べずっとマットな音調である。なぜかというと、ヒスノイズがないのに加え、磁気ヒステリシスや高調波歪みが除かれた無菌室のような感じで、それがリバーブ、コンプレッサー、イコライザーで味付けする前の生の音なのだ。

一般の人が聴くCDプレーヤーをはじめとするデジタル機器は、弱電部の扱いが雑で、DAコンバーターに付属するI/V変換オペアンプ(B級動作)の出力を抵抗器でインピーダンスを合わせただけでは、躍動感のない深みの無い音になっている例も少なくない。音に深みがないとは、リズムのメリハリが単調になったり、音の消え際が漠然としていることで、強拍と弱拍の違いも判りにくい状況のことだ。さらにサブスクともなればもっと雑で、背景を省略するMPEG4はもとより、FLACなどロスレスファイルを展開してコンピューターのソフトウェアで何とか音を出している程度で、音に深みを出すノイズ対策など無防備もいいところだ。アナログだと良いと感じるのは、更に電圧の低いカートリッジを増幅するイコライザー・アンプがそれなりに造り込まれているからである。モノラル時代にあってデジタル時代に抜けているのは、プリアンプ部でのインピーダンス負荷と電圧の安定度であるが、これはとりもなおさず20kHzという周波数帯域をクリアに通すためだけのために省略することが慣習化したのである。この帯域が不必要なモノラル録音には別の方策が必要となる。

もうひとつデジタル音源で難問なのが、パルス性のデジタルノイズの累積で、アナログだと音楽とタイミングのあったスクラッチノイズで心地よく躍動感のプラスされるところが、CDだとどの波長にも付随するパルス性ノイズが、砂でザラザラした感触や、曇った水滴がのっぺりと張り付いたように鳴る。これは20kHzまで無理に伸ばしたデジタルフィルターのポスト&プリエコーからも生じる。さらに追い打ちをかけてデジタル以降に開発されたスピーカーが、この超高域に過敏に反応するよう設計されているのに、モノラル録音の時代はこの帯域の音をコントロールせずに漫然と録っているからでもある。
このCD規格の策定時は、全てのレコードがFMステレオ放送でのプロモーションを前提にしており、周波数帯域が15kHzまでに制限されているうえ、FM変調特有の三角ノイズ(昔のアナログ波テレビに出現した砂嵐と呼ばれるアレ)に埋もれて、デジタルノイズははるか霧のかなたの存在であった。多くの録音エンジニアの事前のヒアリングでも16kHz以上は楽音として必要ないとの意見が多勢を占めていた。それがCDが出たとたんに、手のひらをかえしたように20kHzまで再生できないとデジタル対応とは言えないという意見が趨勢を占めてしまった。

インパルス応答の入力波とシャープロールオフのデジタルフィルターのインパルス応答

ちなみに、CDの音も15kHz以上を緩やかにカットしてやると、パルス性ノイズはなくなり安定してくる。デジタルでアナログ的な味わいを出したいなら、1950年代に設計されたラジオ用ライントランスを噛ませることで、デジタル特有のノイジーなサウンドをフィルタリングしつつ、音声信号にサチュレーション(高次倍音)を適度に加えることができる。私の愛用しているサンスイトランスST-17Aは、安くて小さくHi-Fiの基準を満たすような広帯域でもないが、初期のトランジスターラジオを真空管風の艶のある音に整えることを目的に設計されたもので、1970年代まで汎用品として使われていた。音調も磁気飽和によりMMカートリッジのように腰のある粘りがあり、CD直出しの浅い感じから脱してくれる。

ラジカセ基板のB級プッシュプル段間トランス、サンスイトランス ST-17Aと特性

Jensen C12R+Visaton TW6NGの1kHzパルス応答特性(ライントランスで倍音補完)

【ステレオの音場感なんてただのリバーブの音】
モノラル録音を聴いたとき、ほとんどの人が音に潤いがない、音場感がないという表現を使う。これには理由があって、ステレオ録音の大半はミキシングする際に高域にリバーブをかけ音場感を味付けしており、それが2ch間の位相差として広がるからである。ちなみにリバーブとエコーの違いは、リバーブが鉄板やスプリングのような金属の共振を利用して倍音成分を加えるのに対し、エコーはエコーチェンバーという部屋を通じて全帯域に残響成分を与えることである。


エコー・チェンバーの内部

EMT #140ST プレート・リバーブ


21世紀に入ってモノラル録音のリマスター盤が出回り、これまでゴミクズ当然だった録音が聴きやすくなったと思う人も多いだろう。ひとつはSP盤のスクラッチノイズをイコライザーでカットするのではなく、デジタル編集で細かくゴミ掃除できる点もあるが、リバーブを掛けて音に潤いを与えているものが多い。単純に言えば、マルチトラック録音でミキシングされた音場感とか定位感のようなものは、全てリバーブやイコライザーで作り込まれた仮想のサウンドステージなのである。モノラル録音を薬漬けのない状態で聴く生音は、実は汚い音に聞こえるのが現在のオーディオ技術である。ところがこれに対する賛否両論も激しく、新しいリマスターが出る度に我先に万歳三唱をする人が居るかと思えば、糞味噌にけなして金を返せと言わんばかりに悪評の限りを尽くす人も居る。これもモノラル再生にちゃんと整えたオーディオ装置を持たずに、ステレオ装置でつまみ食いしているからで、俺様の癖の強いステレオ装置に合わせて音質を調整しろと言っているに過ぎない。

私の場合は、このデジタル・リマスターの方法論が固まる以前のCDも多く持っているので、リバーブで音調を整えて帳尻を合わせることにしている。といっても録音スタジオで使うような立派なものでなく、ヤマハの卓上ミキサーMG10XUでほぼ落ち着いている。もとはカラオケ大会でも使える簡易PA用なのだが、心臓部となるオペアンプは自家製チップを使いノイズレベルが低く音調がマットで落ち着いてるし、3バンド・イコライザー、デジタル・リバーブまで付いたオールインワンのサウンドコントローラーである。

ヤマハの簡易ミキサーに付属しているデジタルリバーブ(註釈は個人的な感想)

これのデジタル・リバーブは世界中の音楽ホールの響きをを長く研究してきたヤマハならではの見立てで、簡易とは言いながら24bit処理で昔の8bitに比べて雲泥の差があるし、思ったより高品位で気に入っている。リバーブというとエコーと勘違いする人が多いのだが、リバーブは高域に艶や潤いを与えると考えたほうが妥当で、EMT社のプレートリバーブ(鉄板エコー)は1970年代以降の録音には必ずと言っていいほど使われていた。残響時間とドライ・ウェットの調整(大概が40~60%の間で収まる)ができるので、録音状態に合わせてチョちょっといじるだけで聴き映えが変わる。ポップス用で気に入っているのが、4番目のルーム・リバーブNo.2で、中高域にエッジの効いた艶が加わり、なおかつイコライザーで持ち上げたような位相変化やザラツキもないので重宝している。あと5番目のステージ・リバーブNo.1は、リバーブのかかる周波数域を変化させられるので、高域の艶やかさが足りない録音でも低域のリズム感を犠牲にすることを抑えて聴くことができる。実はこのリバーブの後段にローファイなサンスイトランスを噛ましているのがミソで、ちょうどリバーブと磁気飽和したときの高次歪みがうまいことミックスされることで、楽音とタイミングのあった倍音が綺麗に出てくる。正確な再生というよりは、楽器のような鳴らし方が特徴的だ。

【モノラルの基準はコンサートホール】

モノラル専用の機材を取りそろえたうえで、システム全体のチューニングである。イコライザーとチャンネルデバイダーで調整しながら、自分の耳で自宅において概ねのモノラル録音でニュートラルになるように決めた周波数バランスは、200~2,000Hzを中心としたカマボコ型になった。これは古い録音だからだけでなく、新しいデジタル録音をモノラルにして聴いても同様である。実はこれがコンサートホールの響きとほぼ同様のものであることが、最近になってようやく理解できた。戦前のSP盤の古い録音をよく聞くので、高域にフィルターを掛けることが昔から行われていたが、そうではなく徐々にロールオフするのが正解だったのだ。それと共に、最新のデジタル録音も同じように自然なアコースティックで聴けるようになった。両者の間にある音質の違いは、1950年代から大きく変化しておらず、むしろ発展したのはコンピューターによる解析技術のほうであると私は思っている。人間の耳も音楽ジャンルも、それほど変化していないのだ。

それと共にコンサートホールでは200Hz以下のバランスが100~200ms遅れた反響音として滞留しており、これは現在のウーハーの鈍い反応の設計の主流となっていることも判る。録音がスピーカー固有のサウンドステージに押し込められる原因は、従来から静的なコンサートホールの周波数特性を重視したため、ウーハーの受け持つ帯域のタイミングが全部遅れるというアンビバレントな状況によるのだ。これもステージ上で生楽器と競り合ったミッドセンチュリー期のPA技術のほうが正しい結果を出している。

コンサートホールの周波数特性の調査結果(Patynen, Tervo, Lokki, 2013)

実際のホールトーンと我が家のスピーカーの比較
点線は1930年代のトーキーの音響規格


高域をHi-Fi対応に拡張するコーンツイーターだが、これも現在のツイーターの性能基準とは全く違う。私の使用している独Visatone TW-6NGは、1950年代のドイツ製真空管ラジオに付いていたツイーターの代替品のようなもので、計測してみると、5kHzと13kHzで大きくリンギングしており、三味線でいうサワリのような役割をもっている。これではステレオ録音は、奥行き感のない平面的な音場感で展開するのだ。
しかし、これをモノラルで大口径エクステンデッドレンジに組わせると、波形のタイミングがぴったり息が合って、まるでシングルコーンのフルレンジのように一体感のあるサウンドを叩き出すのだ。このため、高域がかならず中域の支えと寄り添った厚みのある音であると同時に、エクステンデッドレンジの筋力を阻害せずにうまく伸ばす方向にいっている。これが新しい設計のツイーターだと、エクステンデッドレンジの波形の立ち上がりに割って入るように鳴って、少し雑然とした感覚が残ってしまう。


ドイツ製で格安のVisaton TW6NGコーンツイーター(試聴位置:仰角75°からの特性)

Visaton TW6NGのタイムコヒレント特性

3.5kHzクロスで足したツイーターの音圧レベルだが、これはカマボコ特性のロールオフ曲線に馴染むように、鶏冠(とさか)のように少し足しているだけである。しかし、ウーハーとツイーターのタイミングはぴったり1波形に整っており、高域不足はあまり感じないし、高域が1本芯が通っているというか、足が地に着いた肉厚な音になる。これが中域を中心にしたモノラルの音の魅力そのものである。


周波数特性(斜め45度計測)

インパルス特性


私自身はついこの前知ったのであるが、1970年代からアブソリュート・サウンド誌に参画していたオーディオライターのアート・ダドリーは、同誌を辞めた後にアルテックのヴァレンシア(後にフラメンコ)をリファレンスにして批評活動を再開したということだった。そこでは、オーディオに必要な要件について「タイミング」という言葉をしきりに使っており、生涯の敵は「性能に問題ないと繰り返す専門家」と「周波数特性の専制主義者」である。このことを深く悟ったのは、歴史的なソングライター アーヴィング・バーリンの自宅を訪問したときのことで、そこで聴いた長年使いこまれたポータブルの蓄音機と電蓄の音が、78rpm盤とLP盤のどちらにおいても、あまりに家のインテリアと馴染んでいて感服したという。ちなみにダドリー氏がオーディオ機器の批評に正式に参加するときは、盟友のジョン・アトキンソンがダドリー氏の好む音響特性についてフォローするお約束となっているが、1kHz以上は-3~4dB/octでロールオフする独特なカマボコ型である。(この音響特性の有効性については後ほど述べる)一方では、アメリカのライターらしくフォークやロックへの愛情をたっぷり注いでいた点も、オーディオ進化論が既に緩やかな漸近線を画いてピークに達していた20世紀末から21世紀において、一風変わっているけど趣味性の高いコラムとして読まれていた。実はこれが21世紀オーディオの最先端でもあったと思うのだが、あまり日本では話題にならなかった。この辺もモノラル専用オーディオシステムの難しさである。

アート・ダドリーのリスニング・ルーム(アルテック フラメンコが目印)と音響特性


以上のように、オーディオ機器の音響性能について、電気信号の理論的なスペックよりも、現実の部屋のアコースティックを押さえた方法についてあれこれ述べたが、これは単純に電気録音の足らない部分を補完する方法が、モノラル時代には豊富だったということを示している。スペック重視に走り過ぎて自分の聴覚をコンピューター以上に正確に聴き取ることを目標とはせず、人間にとって必要十分な情報とは何かをしっかり勘定することが大事である。そのほうがずっと幸せに音楽を楽しめるはずだ。



【モノラルと過ごす時間】


私自身、モノラルのみで音楽鑑賞をここ10年ほど続けてきたが、改めて感じるのは、自宅で聴く音楽は身の丈に合ったものであるのが、一番心地よいというものである。部屋をコンサートホールのように拡張する必要性はないし、それを基準にしたところで自分の欲深さを満足できるものでもない。
モノラル時代の写真をみてると、ボードゲームをしながら、バーでくつろいだり、ボウリング場でワイワイやったり、ウェスタンショウで踊ったり、自分の部屋で寝転んだりと、人それぞれ気ままに楽しんでいる様子が伺える。つまり、ながら族の音楽鑑賞法なのだが、20世紀にラジオやレコードの出現が生んだのは、羽の生えた音楽があらゆる階層の日常生活のなかに浸透していく状況である。これがアメリカン・ポップスのもつ力の根源となったのである。何でもコンサートホールで演奏する音楽のほうが集客力も演奏内容も上質と思うのは間違いである。







アメリカ人の開拓精神の源はどこにあるかと問われれば、1854年に出版されたソロー「森の生活」だろう。それまで質素と倹約を唱えたプロテスタント資本主義のようなものは存在したが、自然に返るという人生哲学まで深めたのはソローがはじめてであった。最低限の椅子とベッドと暖炉だけの生活は、人間が必要とする住居の骨格であり、自分が自分らしく生きるためには、孤独を楽しむ時間のほうが価値があるとしたのも、小屋での生活から学んだことであった。

ソローの名著の舞台となった小屋はレプリカで立て直され保護されている

世界遺産 ル・コルビュジエの小屋ができるまで/藤原成暁・八代克彦(2023)

ものつくり大学の建築学科の実践プログラムとして企画された、カップ・マルタンの海辺に作られたル・コルビュジエの終の棲家、休暇小屋(1952)の実測とレプリカの製作記録である。既に1924年に「小さな家・母の家」を完成し、1929年の近代建築国際会議(CIAM)では「生活最小限住居」についてプレハブ住宅を発表していたが、晩年になって「ユニテ・ダビタシオン」の建設と並行して企画されたのが、この木造の休息小屋である。人間の身体によって測定されるモジュロールの実践もあってか、あらためてそのディテールを再現してみると、全く無駄のない構造をもっていることが判る。これとソローの小屋を比べてみると、驚くべき相似性があることに気付くであろう。実は一般家屋の部屋という単位もまた、同じ構造で成り立っているのだが、ソローの言う通り、人間は他人と同じ生活をしようとあくせく働く生き物であるのに、本当に必要なものはそれほど多くはない。小屋とは第一に身体と生活を委ねられる場所であるべきなのだ。


私自身、ウグイスの鳴き声が聞こえる森林の近くに住んでいるが、駅から離れた郊外の山を切り拓いて人間様が乗り込んでいった名残でもある。そこに一軒家の我が家を建てたのだが、実際に自分に与えられたスペースは机と椅子が置けるぐらいで、そこでオーディオ機器を置いて音楽を聴こうというので、自然とディスクサイドにモノラルスピーカーを置く方向に転換していった。で、そのスペースとソローの小屋を比べてみると、まさに同じ境遇なのである。人間が生活できる最低限のスペースとはよく言ったものだと我ながら呆れた次第である。

我が家のオーディオ環境とソローの小屋内覧


ボブ・ディラン/ベースメント・テープス完全版(1967-68)

フォーク音楽をエレクトリック・バンド化する方向転換により、フォークの貴公子から反逆者へと一転したディランだが、1966年夏のオートバイ事故以降、表舞台から姿を消していた隠遁先の小屋にザ・バンドの面々を集めて楽曲の構想を練っていた、というもの。録音機材のほうは、アンペックスの携帯型602テープレコーダーで、フォーク音楽の蒐集にご熱心だったアルバート・グロスマンがピーター・ポール&マリーのツアー用PA機材から借りた。ディラン自身は、自分の詩と楽曲に対する独自性をデビュー当初から認識していて、著作権登録用の宅録を欠かさない人でもあったから、そうした作家業としての営みが専任となった時期にあたる。もしかすると自らをパフォーマーとしての活動は停止し、作家として余生を過ごそうとしていたのかもしれない。しかし、このスケッチブックの断片は、楽曲のアウトラインを知らせるためのテスト盤がブートレグ盤として大量に出回り、それを先を競ってレコーディングした多くのミュージシャンたちと共に、ウッドストックという片田舎をロックと自由を信託する人々の巡礼地と化した。今どきだとYouTubeで音楽配信するようなことを、非常に厳しく情報統制されていた半世紀前にやってのけたという自負と、これから生きるミュージシャンへのぶっきらぼうな彼なりの伝言のように思える。


さて、モノラル道楽の余波というべきか、ジェンセンが最も得意とするのが、粗雑なフィールド・レコーディング(野外録音)の再生である。道端で演奏するブルースマンに鍛えられたタフさは、ボブ・ディラン「ベースメント・テープス」でも発揮される。即興的に楽想を練るディランと、それに合わせるザ・バンドの面々の巧さは、戦前のブルースやフォークのセッションでは日常的なものであったが、ともかく流れている時間が違うことに気が付く。ただ緩いのではなく、何をもってコール&レスポンスの間合いを取るべきかを、ちゃんと把握したうえでの、間の取り方の巧さなのである。分刻みで人も物も金も動いている都会のリズムではない、かといって際限なく与えられた余暇を無駄にしない、まるでただ息を吸って吐くかのような自然なリズムの流れがある。

まだミシシッピに居た頃のマディ・ウォーター、カズーを咥えたブルースマン


今回取り上げた1940年代前後のアメリカの芸術はどうなのか。アメリカの現代美術というと、抽象絵画やポップアートなどがやたらに取り上げられるが、多くは手に職を持ちながら芸術的行為もこなす、職人気質の人たちが大勢を占めている。そのため、いわゆる美術史に残るような新しい芸術の潮流を描くというよりも、もっと現実に沿った生き様がそのまま作品に投影されていることが多く、そのリアリズムの意味を嗅ぎ取らないと良さが分からない。例えば、以下の4人の芸術家の本をみれば、実際に生活しながら見て触れた風土と溶け込みながら自身の作風を確立していることが判るのだ。一方で、当地のアメリカ人たちは自分の仕事で忙殺されているのか、自国の芸術家たちをまるで時給払いで養っているかのように、その芸術の価値と話題性を永続させるようなことがあまりない。こうして日本の研究者がトリビュートして出版している事実に行き当たると、かなり違和感を感じるのは私だけではないだろう。

フランク・ロイド・ライト/有機的建築 (1939~55)

日本の帝国ホテルの設計でも知られるフランク・ロイド・ライトが、ちょうどタリアセン・ウェスト建造中の1939年にイギリスの学生に向けて行った特別講義の記録と、晩年の1953~55年にそれをまとめるするかたちで出版された「ナチュラルハウス」、タリアセンで学ぶ実習生に語った「創造の鍵」が収録される。これを読むと、タリアセン・ウェストの企画は、成り行きまかせのようでありながら、建造に関わる学生たちの自由な発想を、乾いたアリゾナの風土に溶け込ませる実験的な要素の強かったことがよく分かるし、土地の所有という概念そのものを打ち破ろうというラディカルな志向も表現しようとしていたことが判る。アメリカが誇る開拓精神をより深めたかたちで思索していた建築家であった。
イサム・ノグチの空間芸術/松木裕美(2021)

日系アメリカ人のアヴァンギャルド彫刻家として数奇な人生を歩んだイサム・ノグチのパブリック・アートを時系列的に追った本である。初期のシュルレアリスムの作風から、都会の中心に形作られるモダン庭園とパブリック・スペースへの躍進、さらに自身の作品が遺跡ともなりえる公共性を勝ち取る過程がよく分かる内容となっている。イサム・ノグチというと彫刻家としての側面が強いために、作品集となると個々の石像がクローズアップされがちだが、彼が本質的には都市の空間デザイナーの先駆けとなっていたことを、ロックフェラー財団などが既に見抜いていたことなど、都市という完成された経済機構の内なるフロンティアに向かって深化する過程もあぶり出されている。
アンドリュー・ワイエス作品集/高橋秀治(2017)

大草原にポツンと建つ一軒家に向かって這っていく女性の印象的な絵画「クリスティーナの世界」で知られる画家の画業を大判で紹介した本だが、この極めてアメリカ的な画家(実際に保守系大統領から何度も表彰されている)の画集としては、日本のこの本が最も充実している。私が実際に観たのは1988年の展覧会だったと思うが、ほの暗い会場でひとつひとつのコーナーが区切られている状態の閉鎖的な展示は、ひとつひとつの作品が小説のように語りかけてくるのに時間を忘れてしまうようだった。中間色で埋め尽くされている繊細な色使いは到底カタログでは出し切れていないので、カタログは買わずに帰ってきたが、この本はその後に発見された個人的な裸婦のモデルを扱った作品も含んでいて、個人的な付き合いを大事にする移民たちの閉鎖的なコミュニティを想起させる。ちなみにワイエスはよくある商業的な肖像画(例えばダリなどはかなり高額な報酬で肖像を描いていた)を副業にもっていたのではなく、あくまでも普通の人々を題材に描いた点でかなりユニークだったといえる。
だれも知らないレオ・レオーニ/森泉文美・松岡希代子(2020)

オランダ出身で絵本の「スイミー」「あおくんときいろちゃん」で知られ、さらに「はらぺこあおむし」のエリック・カールのご師匠さんとくれば、うさちゃんことミッフィーで知られるディック・ブルーナさんのような人を思い浮かべるかもしれないが、イタリアのジェノヴァ大学で美術の道を志したが、ユダヤ系だった彼の家族は戦中にアメリカ亡命の道を辿り、そこで商業広告のデザイナーとしてスタートした。絵本を最初に書いたのは1959年、もはや50歳になろうとした頃の何気ない転身であった。ところがその後1969年以降から徐々にイタリアのトスカーナ地方に住居を移しはじめ、最終的にはイタリアでシュールなファインアートの画家として寿命を迎えた。絵本におけるアメリカ的なポップな絵柄は、まさに1960年代のものだが、自分が何者であるのかを生涯追い続けていたという単純な答えが返ってくるだろう。


なぜ山小屋生活とキッチュな現代芸術家を掛けるのかといえば、それは彼らが人生の達人というべき味の濃い生き様を芸術にまで昇華させているからである。いわば芸術家肌と呼ばれる天才は、天は二物を与えずという言葉通り、それ以外の事柄が不器用で、どこか破天荒なところがチャーミングと思える感じもしなくもない。しかし上記に紹介した芸術家の仕事ぶりは生真面目な職人のものである。それは市民社会での芸術は、それ自体が何か社会の役に立たなければならないという、アメリカ的な実用主義(プラグマティズム)に裏付けられているからでもある。

モノラルはじめて10年の歳月というのは、思っているほど長くもなく走馬灯のように巡っている。それもそのはず、自分の思い描いているサウンドを聴いているのだから、むしろ保守的な嗜好を深めているに過ぎない。盆栽いじりのように、同じところを行ったり来たり、でも飽きない。それが趣味の道というべきだ。
●2012年4月:最初はロクハンと三極管アンプでシミジミ行こうと…

●2014年10月:アメリカン・ビンテージの世界に片足をつっこみ…

●2017年5月:パーツは全て新品でそろえられるようにした

●2022年5月:ホーン、リボン、ソフトドームとツイーター遍歴を経てコーン型に回帰


自分と音楽との関係を時間を掛けて形にしていくのは意外にむずかしい。多くの人は再生可能な電子機器さえあれば聴けるのだから、気軽にそれで十分だろうと思うらしいが、そう思って色々と珍しい演奏のCDを買い込んでいた自分の胸に問い掛けると、イヤ、ただ知っているだけでは聴いたことにはならない、という普通の答えが返ってくる。録音の再生とは、文字通りに生きていなければ意味がない。ジェンセンが問い掛けるのは、そういうことである。



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