オーディオの夢の行く末


20世紀の娯楽と芸能
 変な話しですがパリのムーラン・ルージュの歴史を当時の録音で綴った企画CDが手元にあります。19世紀末の踊り子やシャンソン歌手で色華やかに彩った時代がよく語られますが、実際にはカフェ・コンセール→ミュージック・ホール→映画館という変換をして劇場としての生命を終えています。このことは芸能文化を語るうえで非常に重要で、娯楽の中心が演劇やミュージカルといった人間の芝居から、映画という複製芸術へと移り変わったことの典型的な例です。コロンビア・ピクチャーの歴史にはトーキーの初期は劇場の買い占めによる借金で倒産寸前になった映画会社が多かった旨を記しています。それほどに場末のエンターティナーは映画に飲み尽くされていくのでした。複製芸術の時代の到来をメディア論(例えばW.ベニヤミンのいうような)として論ずるようなことはここではしませんが、ひとつの目標にこの問題が存在するのだということを奮起したいと思います。

 一方でラジオやテレビのなかでは、それは放送時間とともに消えゆく存在であるという認識のなかで、芸能の在り方が生出演と複製物とで連動していきます。ひとつの事柄を数万人という大衆が共有するマス・メディアの時代を告げます。これは放送フォーマットの枠のなかで、大衆がこぞって芸能について語るというもうひとつの現象を生み出します。このことは複製し繰り返すという以外にも、一期一会の時間のなかにも複製する以上のインパクトをもってショー・ビジネスが成立することにも繋がります。最初は本物にいかに迫れるかという意味での複製だったものが、次第にそれ自体が一期一会のリアルな事として共有され注目されていくことが判ります。芸能の手法そのものには大きな差異はみられないものの、それを演じる側と観賞する側の主体性に変化が生じてるともいえましょう。

 第二夜の冒頭で「オーディオの夢」について語りましたが、「こうして音の出る機械は家々を巡って演奏家を連れ歩くようになります。時代によってその音質も性格も異なりますが、演奏家とパーソナルな関係を保ちたいと思う人の心はどこまでも続くようです。」という感想は私自身にあります。この欲求に引張られてレコードや映画からスターが生まれました。一方で芸能を一子相伝で伝え抜こうとする本来のフォームがあります。しかし本来の芸能はその場限りのエンターテイメントである場合が多いことも確かで、演目を伝承するのではなくタレントという職業に徹することで命を終えるものも少なくありません。そうした時代々々の娯楽を新聞のスクラップ記事のように収めていく作業が、私のオーディオ再生のテーマということでした。20世紀の音の博物館という過大な目標もちらほら考えています。

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