【都会の渇き】
21世紀になってから「ゆるキャラ」なるものが役所周りで増殖し、日本中がディズニーランドのようにカワイイ文化で埋め尽くされている。そもそも日本人は、大人がカワイイものを愛でることに寛容で、外国だと子供っぽいと一蹴するようなものでも、ファッションとして立派に成り立っている。それは単に美的な存在としてだけではなく、「猫っ可愛がり」という言葉から連想するように、癒しの効果さえあるというのである。「ゆるい」というのは、喧騒の多い都会生活に、一種のオアシスを提供するため必須の課題とも言えるのだ。「ゆるい」とは「ゆるし」にもつながる。何でもない時間を過ごすのを許すこと、これだけでも癒しとなるのかもしれない。
では、音楽で「ゆるい」というのは、どう評価されるべきだろうか。弱肉強食のショウビズの世界で、覇気のない奴はすぐにでも忘れられてしまうようで、浮かんでは沈む浮き草のような存在かもしれない。それでもレコードに残された貴重な「ゆるい」音楽を、どうにか見つけること自体が、実は大変な労力だったりして、何のための「ゆるさ」なのかよく分からなくなるのが実情だ。
BGMやムードミュージックのように差し障りのない音楽というのは、昔から存在した。しかし、今聴くとカスケードストリングスひとつ取り上げても、大人数を掛けた結構ゴージャスな雰囲気だったりして、けして「ゆるい」と一言で片づけられない。おそらく当時の人もそう感じただろうが、ボールルームでチークダンスを踊るときの贅沢な思いが本当は秘められていたのである。いわば「全力であなたの恋を応援してます」というメッセージが込められていたのだ。この再生を高級家具調スピーカーに託すのは、けして誇大広告でもなかった。
エレクトロボイス社 パトリシアン |
マントヴァーニ・オーケストラ
タンゴ・ワルツ名曲集 |
アントニオ・カルロ・ジョピン
イパネマの娘 |
「ゆるさ」を演出するものとして、南国に流れる時間感覚がある。潮の満ち引きで漁のタイミングを決めるくらいなので、それ以外は何もせず、ただ待つしかない。
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オータサン
Rainforest |
小野リサ
セレソン |
細野晴臣
トロピカル・ダンディー |
「ゆるさ」は優しさに通じるかもしれない。女性の優しい声は、揺り籠を見守る母親のように大きな愛情を感じるときがある。この優しさは、何にも支配されない自立した存在でもある。
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トワエモア・ベスト |
フランソワーズ・アルディ
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ジュディー・シル
BBCライブ |
「ゆるさ」には、老いてから悟るものもあるだろう。時間は勝手に流れていくものだが、それをあえて堰き止めようとは思わない。もう過ぎてしまったことを、くよくよ思い悩まない。後ろ向きでも、前向きでもある必要はない。あるがままを受け容れよう。
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ミシシッピ・ジョン・ハート
1928セッションズ |
イブラヒム・フェレール
ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ |
ジョー・バルビエール
夢のような家で、君と |
「ゆるさ」は「ゆるやかさ」にもつながり、実は深呼吸するようにリズムを掴まないと「ゆるやかさ」は出ない。上に挙げたミュージシャンには、実は緻密な計算に基づいた音の流れをつくることのできる、本当のマエストロも少なくない。あえていえば、ゆるやかさを究めた、「極上のゆるさ」なのである。
【ジェンセン爺の流儀】
【ゆるい感覚を正しく知る】
一方で、オーディオで「ゆるい」ともなると、それは売れない商品の代名詞と言ってもいいかもしれない。というのも、大金をつぎ込むという覇気に応えることがないからだ。思えば、昔のオーディオ専門店のオヤジ店主は怖かった。質問すると「それは誰が言った言葉か?」という風に、逆に質問してくる。かと思えば延々とオーディオ論を演説しはじめる。それで試聴時間などほとんど取れないまま退散ということになる。これと正反対なのは、古本屋のオヤジである。ともかく店の奥で置物のようにじっと座っている。プロ意識にも色々あるもんだと思うが、オーディオ販売という職業意識に、どこかしらモーレツなパッションを感じるのは確かだ。これが「ゆるい」と失格なのかもしれない。
しかしオーディオに癒しの要素を評価する面もある。三極管アンプを柔らかい音と感じる人がいるが、トランスの駆動力が弱いのでそうなりやすいだけかもしれない。またアナログ盤のことを、柔らかい印象で語る人も多いが、おそらく高域のエネルギーがCDほど直情的ではないからだろう。環境音楽というのがひところ流行して、その手の音楽を再生するのに無指向性スピーカーが良いように言う人もいるが、これも直接的な音のエネルギーを受けないで済むからだろう。総じてオーディオでの「ゆるさ」とは、直接的な表現を避けて、あえて脱力した部分を造ることから始まりそうだ。
「ゆるさ」は「ゆるやかさ」にもつながり、実は深呼吸するようにリズムを掴まないと「ゆるやかさ」は出ない。上に挙げたミュージシャンには、実は緻密な計算に基づいた音の流れをつくることのできる、本当のマエストロも少なくない。あえていえば、ゆるやかさを究めた、「極上のゆるさ」なのである。
ここまで来ると、オーディオでどこか手抜きをすればリラックスした雰囲気になる、という安直なものではないことも理解できるだろう。「ゆるやかさ」には、音が静かに流れ出して、しかも波打つような力強さが必要である。この音の流れを醸し出すのに、オーディオはどのようにサポートできるだろうか?
【自分の「ゆるさ」を数える】
「ゆるい」とは一種のボケであると思う。マヌケなところをワザとみせる余裕がなければ、ボケられない。しかし実際に人間は自尊心だとか欺瞞のカタマリのようなもので、脇が甘いと社会生活では苦労するのが常識である。どうもオーディオ業界のなかには、商業主義のなかにある自尊心をベースに組みあがっている側面があって、おいそれと欠点をあげてボケられないし、それを「ゆるさ」ないのだ。
ということで、私のシステムのうちで「ゆるい」部分を数えてみた。数えてみると「-7点」である。皆さんにはどれくらいあるだろうか?
私はベルトドライブ式のCDプレイヤーを使用しているが、これは読み取り精度を高めるためのトルク制御をしないことにより、音に伸びやかさを生み出している。
後面解放箱にも同じような自由度があり、エンクロージャーによる空気圧の反発や共振が長引くようなことを生じさせないため、入力信号に素早く反応する。反応が素早いというと、エッジが立った切れ込みばかり目立つように想像しやすいが、フィックスドエッジのスピーカーは引き際も早いので、全体に音の抑揚が明瞭になる傾向がある。それは長く伸ばす音の抑揚も、刻一刻と変化していることを実感させてくれる。これには、チャンデバを使ってスピーカーにフィルターを背負わせないことで、アンプの信号をスピーカーにストレスなく伝えることに寄与している。おそらくリボンツイーターにも、ストレスのない軽やかさがあるだろう。音の反応が「しなやか」だと言う方が判りやすいかもしれない。
スローロルオフのDAC、古いラジオ用ライントランスも、超高域のパルスノイズまで正確に再生せず、楽音から発生する音に集中するように促す。トランスには、音のエネルギー感だけを通すような感覚がある。しかしパワフルというよりは、人肌に感じるような暖かい手触りのようなものである。パルスノイズは音の気配を強調するが、ライントランスからは音の実在感が引き出されるように思う。
あと、回転椅子をスピーカー台にしている。これはスピーカーが人間の胸像サイズなので、椅子に載せるとちょうど一人の人間が座ってるモックアップになるのと、後面解放箱の乱反射を椅子の背もたれが適度に吸収してくれる一面もある。あと移動が楽なので、スピーカー周りの掃除もしやすい。
私にとって「ゆるやかな」音とは、音をストレスなく伸びやかに出すことのように感じる。それは反応のよい「しなかやな」音でもあり、気負いのないエネルギーの発現でもある。
【ラジカセを見習う】
実を言うと、私のシステムはラジカセをモデルにしており、ある種の「ゆるさ」が引き継がれているかもしれない。ラジカセはアウトドアで楽しめるように、気のおけない友人のようなお気軽な雰囲気がある。ベルト駆動のテープデッキ、段間トランスのプッシュプルアンプ、後面解放のフィックスドエッジ・スピーカー、これらはラジカセなら当たり前の装備だが、オーディオ機器として構えようとすると、どうしても余計な機能を追加したくなる。結果的には、緊張感の高い音を指向しがちなのだ。
しかし感心するのは、ラジカセ広告の卓抜さである。これだけ音楽と関係ないものにリンクしたコピーを続けてきたのは、逆に誇るべきことだと思う。それでいて、どういう音楽が流れてくるかイメージが沸くのだから不思議だ。自分のオーディオ・システムが、こういう自然体にできるだけ近づくのを夢見てる。
音楽を釣りとヘルシーフードに喩えられたのはラジカセだけ
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