●20世紀的脱Hi-Fi音響論(シーズンオフ・トレーニング)
我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「優雅な音」は、ジェンセンの安物スピーカーでモノラル・システムを構築し、貴族文化なるものに正面衝突する状況をモニターします。。。。の前に断って置きたいのは 1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です) 2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします) 3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます 4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます) という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。 |
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優雅な音
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【古典派音楽の流儀】 18世紀ヨーロッパのクラシック音楽の演奏形態を、オーディオでどう再現するかという話題である。この世紀の前半はバロックの大家であるバッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディなどが活躍し、後半はハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといったウィーン古典派に移行していく。ちょうど18世紀は、イギリスで産業革命が始まる前で、その下準備として国際貿易の利潤が市民レベルにまで浸透してきた頃である。それまで音楽家のパトロンが、地域の農業資本を囲った教会、宮殿という大富豪から、中間富裕層(プチ・ブルジョワ)による音楽協会などにより、公開演奏会(コンサート)を主催することで、音楽家やその作品そのものに注目が集まるようになった。いわゆる音楽批評、クラシックという概念そのものが現れたのもこの時期である。 貴族の邸宅でのコンサート こうした市民による音楽協会(コレギウム・ムジクス)は、ニュルンベルクなどの自由都市を中心に16世紀から存在したが、それは公開演奏会というより仲間内の会合という控えめなものだった。またヴェネチアのような観光都市も祝祭という演奏形態があったが、その地域の音楽家の超絶技巧に寄るところが大きく、それが地域外にまで持ち出されたり、一般市民が耳にすることはなかった。 18世紀のコレギウム・ムジクスの集い 18世紀における音楽作品の流通は、アマチュアの団体でも演奏できるという作品様式の改革によって、地域外の音楽愛好家の演奏会レパートリーとして蒐集されるようになった。これがバロックと古典派の音楽の大きな違いでもある。アマチュアの音楽家といっても、ベルリンのフリードリヒ大王のようにフルートの名手として知られる人物から、教養としてクラヴィーア曲を学ぶ御婦人まで色々だった。イタリアのコレッリの合奏協奏曲は、イギリスやオランダのアマチュア団体の恰好の演目であったし、ハイドンの作品はプロの楽団のためのものだが、異国のオックスフォード大学で博士号を授与されるように一般的な注目を受けていた。ベートーヴェン作品の献呈者に名を連ねる様々な貴族もまた結構な名手が存在した。 ベルリンのフリードリヒ大王の宮廷コンサート 私の勘繰りでは、ウィーン古典派の国際的な広がりには、ボヘミア出身の音楽家たちの就職先として、国境を超えた大都市でのコミュニティーがあったのではないか、と思っている。マンハイムのシュターミッツ父子、ベルリンのクヴァンツ、ベンダなど、前古典派に属する音楽家には、ボヘミア出身の音楽家が少なくなく、それも管弦楽法や楽器の演奏法などに書籍を残している重要な音楽家が多いのである。逆に反証的な例では、有名なヴィヴァルディ「四季」はボヘミアの貴族モルツィン伯爵に献呈されており、ベンダの自伝でも年少期にヴィヴァルディの楽譜をよく学んだという記述がある。ハイドンが最初に楽長として迎えられたのも、没落寸前のモルツィン伯爵家であった。またウィーン生まれのツェルニーも、ボヘミア出身の音楽一家の子息である。後のロマン派時代にチェコ国民楽派として再結成されるまで、これらのコスモポリタンの音楽家の活動は、実質的なパトロンだった各都市の富裕層の名誉として残り、ウィーン、ロンドン、ベルリンなど各都市の名で呼ばれるようになっている。
古典派音楽の演奏形態として、長らくウィーンでの公開演奏会という雛形があり、ピアノで言えばモーツァルト~ベートーヴェン~リストの流れ、交響曲でいえばハイドン~ベートーヴェン~ブラームスの流れ、という風に、ウィーン楽友協会のスタイルで演奏論を組み立ててきた。その方法論に立ち向かったのが、古楽器による演奏論で、作曲当時の楽器の特性から作品論を洗い直すことで、それまでの思索的な作品論の迷宮から、科学的なメスが入るようになった。 |