20世紀的脱Hi-Fi音響論(シーズンオフ・トレーニング)


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「優雅な音」は、ジェンセンの安物スピーカーでモノラル・システムを構築し、貴族文化なるものに正面衝突する状況をモニターします。
優雅な音
【古典派音楽の流儀】
【古楽器の録音】
冒険は続く
自由気ままな独身時代
結婚後のオーディオ
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。


優雅な音

【古典派音楽の流儀】

 18世紀ヨーロッパのクラシック音楽の演奏形態を、オーディオでどう再現するかという話題である。この世紀の前半はバロックの大家であるバッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディなどが活躍し、後半はハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといったウィーン古典派に移行していく。ちょうど18世紀は、イギリスで産業革命が始まる前で、その下準備として国際貿易の利潤が市民レベルにまで浸透してきた頃である。それまで音楽家のパトロンが、地域の農業資本を囲った教会、宮殿という大富豪から、中間富裕層(プチ・ブルジョワ)による音楽協会などにより、公開演奏会(コンサート)を主催することで、音楽家やその作品そのものに注目が集まるようになった。いわゆる音楽批評、クラシックという概念そのものが現れたのもこの時期である。

貴族の邸宅でのコンサート

 こうした市民による音楽協会(コレギウム・ムジクス)は、ニュルンベルクなどの自由都市を中心に16世紀から存在したが、それは公開演奏会というより仲間内の会合という控えめなものだった。またヴェネチアのような観光都市も祝祭という演奏形態があったが、その地域の音楽家の超絶技巧に寄るところが大きく、それが地域外にまで持ち出されたり、一般市民が耳にすることはなかった。

18世紀のコレギウム・ムジクスの集い

 18世紀における音楽作品の流通は、アマチュアの団体でも演奏できるという作品様式の改革によって、地域外の音楽愛好家の演奏会レパートリーとして蒐集されるようになった。これがバロックと古典派の音楽の大きな違いでもある。アマチュアの音楽家といっても、ベルリンのフリードリヒ大王のようにフルートの名手として知られる人物から、教養としてクラヴィーア曲を学ぶ御婦人まで色々だった。イタリアのコレッリの合奏協奏曲は、イギリスやオランダのアマチュア団体の恰好の演目であったし、ハイドンの作品はプロの楽団のためのものだが、異国のオックスフォード大学で博士号を授与されるように一般的な注目を受けていた。ベートーヴェン作品の献呈者に名を連ねる様々な貴族もまた結構な名手が存在した。


ベルリンのフリードリヒ大王の宮廷コンサート

 私の勘繰りでは、ウィーン古典派の国際的な広がりには、ボヘミア出身の音楽家たちの就職先として、国境を超えた大都市でのコミュニティーがあったのではないか、と思っている。マンハイムのシュターミッツ父子、ベルリンのクヴァンツ、ベンダなど、前古典派に属する音楽家には、ボヘミア出身の音楽家が少なくなく、それも管弦楽法や楽器の演奏法などに書籍を残している重要な音楽家が多いのである。逆に反証的な例では、有名なヴィヴァルディ「四季」はボヘミアの貴族モルツィン伯爵に献呈されており、ベンダの自伝でも年少期にヴィヴァルディの楽譜をよく学んだという記述がある。ハイドンが最初に楽長として迎えられたのも、没落寸前のモルツィン伯爵家であった。またウィーン生まれのツェルニーも、ボヘミア出身の音楽一家の子息である。後のロマン派時代にチェコ国民楽派として再結成されるまで、これらのコスモポリタンの音楽家の活動は、実質的なパトロンだった各都市の富裕層の名誉として残り、ウィーン、ロンドン、ベルリンなど各都市の名で呼ばれるようになっている。


 古典派音楽の演奏形態として、長らくウィーンでの公開演奏会という雛形があり、ピアノで言えばモーツァルト~ベートーヴェン~リストの流れ、交響曲でいえばハイドン~ベートーヴェン~ブラームスの流れ、という風に、ウィーン楽友協会のスタイルで演奏論を組み立ててきた。その方法論に立ち向かったのが、古楽器による演奏論で、作曲当時の楽器の特性から作品論を洗い直すことで、それまでの思索的な作品論の迷宮から、科学的なメスが入るようになった。
 その方法論に貢献したのが、オックスフォード、ブリュッセル、ミュンヘンなど古楽器の博物館のある都市であり、最初はルネッサンス、バロックから出発した古楽器の演奏論は、そのボーダーラインをモーツァルトをはじめとするウィーン古典派にまで広げたことで、音楽史という枠組みを抜け出してクラシックのレパートリーに食い込むことになった。特に1979年に録音が開始されたホグウッド/アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(AAM)のモーツァルト交響曲全集は、単に古楽器を使ったというだけではなく、演奏論からその必然性を明らかにしたエポックメイキングな録音で、このことで一気に古楽器演奏がヨーロッパ楽壇を席巻するようになった。

ホグウッド/AAMのセッション風景、1759年建設のKedleston邸が使用された

 こうしたフルオーケストラ構成がコンサートの花形である一方で、シンフォニーホールという19世紀的な音楽専門会場が歴史の主流として紹介される傾向があることも否めない。例えば、舞踏場から発展したハノーヴァー・スクエアとか、大量の集客を誇るロイヤル・オペラ・ハウスなどが、この時代の主流派の演奏形態だと思われている。

イタリアのオペラハウスを模して建造されたロイヤル・オペラ・ハウス

 実際には、集客の多さは商業的な成功であって、けして名声と直結するものではなかったし、もっと地味な音楽サロンでの演奏に最も需要があった。ツェルニーもピアノ協奏曲の最も理想的な聴き方は、ピアノの後ろに座ることだと言ったくらいで、これはコンサートホールでは無理でも、邸宅でのサロン・コンサートではよくある情景だった。音楽サロンでの音楽愛好家による作品鑑賞こそが、作曲家の本来の評価とも結び付いたのである。ここでは、古典派音楽の演奏論と作品論の彼岸を見極めるべく、小さな構成での演奏形態でも、ブレない作品像を提示できている録音を取り上げた。

ヘンデル/オルガン協奏曲
エガー/AAM
 巨大な歴史的オルガンでの録音が多いなか、18世紀の室内オルガンを用いた録音。18世紀イギリスでは、衣装箪笥と同じ大きさでチッペンデール風に装飾した小型オルガンが多く製作され、ピアノ、チェンバロと並んで愛好された。モーツァルトもバッキンガム邸を訪れた際に室内オルガンを試奏している。実はアマチュアの間で最も演奏された鍵盤曲が、スカラッティのソナタと、ヘンデルのオルガン協奏曲の独奏編曲版だった。足鍵盤のないオルガンだが、軽快な音運びと共に、足でストップを一気に落とす「シフトペダル」の効果が印象的に使われる。
ドメニコ・ガロ/トリオ・ソナタ集
パルナッシ・ムジチ
 ストラヴィンスキーが新古典主義の手本にした弦楽ソナタで、いわゆる大合奏ではなく、各楽器1名での室内楽構成での録音。この手の合奏曲が少ない楽器でも良く響く書法であり、多くのアマチュアが好んだ理由が判る好例である。
キルンベルガー&ミューテル/フルート・ソナタ集
ベネデク・クサログ、ミクロス・シュパーニ
 ベルリンの前古典派作品を、ライプチヒ楽器博物館所蔵のオリジナル楽器で演奏したもの。一瞬聴いて気付くのは、楽器間の主従関係の開きで、フルートが大王なら、クラヴィコードは召使。この主従関係に耐えたC.P.E.バッハが、クラヴィコード作品に掛けた情念のほどが、逆に理解できようもの。作曲家の2人は親父バッハの弟子たちであり、同じ多感様式を推進していた盟友でもあった。当時のメロドラマの流行など、ドイツの啓蒙時代がセンチメンタルを基調にしていることが判る。
カール・シュターミッツ/室内楽集
カメラータ・ケルン
 マンハイム楽団のリーダーだった父をもち、オケでは第二ヴァイオリンを受け持っていた息子による室内楽集。2本のフルートやホルンという珍しい構成のため、なかなか演奏機会に恵まれない曲ばかりだが、モーツァルトの曲だと言っても判らないのではないかと思うくらい古典派の特徴をもっており、むしろこっちのほうが本家である。フルート、ホルン、バイオリン、チェロという最低限の構成で、交響曲と同じような語法を組み立てる手腕はやはり一流の証。
ハイドン/ピアノ・ソナタ全集
クリスティーネ・ショルンスハイム
 ハイドンの生きた時代のソナタ形式の移り変わりを、バロック末期のカークマン社のチェンバロからロマン派に入りかかったブロードウッド社のピアノまで、楽器ごとの特色を生かして演奏した録音。CD1枚ごとに1台の楽器を充てているので意外に聞き易い。
イギリス古典派オルガン曲集
ジェニファー・ベイト
 イギリス古典派の鍵盤音楽の一角を占めているものに、室内オルガンのための作品があり、演奏機会が少ないためほとんど知られていない。日本ではアメリカ経由で足踏みリードオルガンが親しまれているが、それ以前は衣装箪笥と同じ大きさのパイプオルガンであった。この需要を生み出したのはヘンデルのオルガン協奏曲の独奏版であったが、その後に続く作曲家についても、多くはイギリス国教会の定職に就いていたため、作曲家として評価されるには至っていない。それとドイツと違って足鍵盤のないオルガンのための作品というのも、オルガニストから嫌われる原因になっている。この録音集は、各地の邸宅に離散する歴史的なオルガンを巡り歩いて演奏したもので、大半は国教会でのヴォランタリー(前奏曲とフーガ)という形式による作品である。
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲4番・5番
スホーンデルヴィルト/クリストフォリ
 各パート1名という少人数オケとの室内構成で演奏した録音。この方法についてツェルニーが言及した理想形であることと、ピアノフォルテの繊細な表現力と結びついたオーケストラ構成のマッチングの妙が味わえる。
モーツァルト(フンメル編)/交響曲38番・41番
ロバート・ヒル/アンサンブル・ロットチェント
 モーツァルトの交響曲を弟子のフンメルが、ピアノとフルート、バイオリン、チェロの四重奏用に編曲した録音。当時のサロンコンサートではこの手の出し物がよくあり、ピアノの活躍ぶりから、フンメルが自分の技巧を誇示するために用意したのだろうが、フンメルの楽曲の売れ具合からみて、アマチュアにも需要のあったことが伺われる。
カルッリ/ギターとピアノの二重奏曲集
パルンボ&サラチーノ
 ベートーヴェンと同じ年に生まれたナポリ生まれのギター奏者。パリの社交界でギター音楽を浸透させた立役者ながら、練習曲のほうが有名で、ソナタ作品はほとんど知られない。この時代ならソルの作品のほうが有名で、ピアノとの組合せも特殊な感じをうける。この録音でも、ウィーン製ピアノのほうが響きが立派で、19世紀ギターの旨味が判りにくいため、なかなか世界のなかに飛び込めないが、一度はまると天真爛漫な作風にすっかり呑まれてしまう。



 一方で、日本人にも古楽器の名手は少なくなく、個人的には雅な雰囲気が最も似合っているのは、日本人演奏者ではないかと思っている。

スカルラッティ&ザンボーニ リュート曲集
佐藤豊彦&ミシェル・ニーセン
 元はチェンバロ・ソナタと思しき曲を、アーチ・リュートの二重奏曲に仕立てたもの。チェンバロだとガシガシ弾きこなすところを、ゆっくりとリュートをつま弾く様子はまさに優雅そのもの。
テレマン/6つの四重奏曲
有田正弘、寺神戸亮、上村かおり、クリストフ・ルセ
 テレマンがパリ宮廷に献呈したものとは別の四重奏曲。フルート、バイオリン、ガンバ、チェンバロによるフランス風組曲と、イタリア風コンチェルトが各々3曲あり、当時のブフォン論争を自ら解決したかのような趣向が面白い。従来に多かった近接マイクでの録音とは異なり、フランスの残響の多い聖堂でのやや遠目のマイク位置で、そのまろやかな響きと古楽器が溶け合って、独特の味わいを出している。
ソナチネ・アルバム
小倉貴久子
 日本のピアノ初心者にはお馴染みのソナチネ集を、チェバロやフォルテピアノで弾いたアルバム。前古典派の作品はチェンバロで、ウィーン古典派~初期ロマン派の作品はフォルテピアノと使い分けている。チェンバロはアルザス地方と思しき2段鍵盤のレプリカだが、イギリスでカークマンというアルザス出身のチェンバロ製作者がいたことを考えると、ルッカースほど響きが重厚でなく、かといってスピネットほど軽くもない、という妥当なラインを選んでいる。フォルテピアノはウィーンのヴァルター製のレプリカで、モーツァルト作品には欠かせない軽いタッチの楽器。この辺は、徹底して家庭音楽を指向するというよりは、コンサートでの実演を意識したものであり、ウィーン~ロンドンを跨いだ鍵盤音楽の粋を味わうのに最適な録音だと思う。


 さて、モダン楽器だと「どこを切っても金太郎飴」と何でも同じような感じに聞こえる作品も、古楽器で演奏すると解釈や効果の違いも多彩であることが判るだろう。問題は、この多彩な表現をオーディオ機器でどのように再現するかだ。



【古楽器の録音】


【ヘッドホンでモニターした録音の課題】
 古楽器演奏の録音会場は、聖堂や古城といったロケーションが選ばれることもあって、編集用のモニタールームがないためヘッドホンでのモニターが主流である。これはドイツでテープ録音が始まった1940年代のラジオ中継からの伝統で、ナグラ社のテープレコーダーで標準だったBeyerdinamic社のヘッドホンは中高域の強いもので、基本的にはノイズ検知がその目的である。一方、古楽器の演奏が盛んになった1980年前後には、楽器の音色や会場の響きを正確に再生できるスピーカーがなかったため、ヘッドホンでの試聴のほうが有利であったことが挙げられる。マイクは従来のノイマン社の大型コンデンサーマイクから、ショップスやB&Kのようなスレンダーな棒型マイクに代り、録音機材のリストにSTAXのイヤースピーカーを挙げる録音エンジニアもいた。
 現在では、録音モニターのヘッドホンにGRAD、HiFiMANなど様々な機種が使われるが、これは1995年にDiffuse Field Equalizationという名称で、外耳の共振を考慮した周波数特性の測定方法が国際規格IEC 60268-7として統一されたことと関係が深い。さらに重要なのはタイムコヒレント(時間的整合性)で、低域から高域の応答のタイミングと位相が揃っていることが挙げられる。よくスタジオ用として使われる密閉型は低域の返しが強いので避けられ、スレンダーなオープン型が好まれる傾向にある。イヤーホンが使われないのは、個々人の外耳の癖が反映されやすいのと、会場の音との聞き比べがしにくいからだろう。


B&K社のダミーヘッド4128C HATSとDiffuse Field Equalization補正曲線(参照サイト


 やや神経質な議論になっているのは、デジタル技術によってレコード再生の癖が抑えられるようになったことと、コンピューターでの音響解析が導入されたことが挙げられる。デジタル時代になって、人間の聴覚のほうがずっと癖のあることが判った、というのが実際である。

 古楽器の録音は1980年代のデジタル録音による恩恵が非常に大きい。一番大きいのが耳に付くヒスノイズもなくSN比が優秀なことで、ダイナミックレンジが自然にとれること。低域から高域までの音響エネルギーが均質なことで、古楽器の音色に癖が出にくい。多くの伝統的な音楽が従来のアナログ方式とのマッチングに苦慮するなか、新参者の古楽器の録音だけはデジタルでの収録を率先した。
 デジタル録音でSN比が格段に上がったことで、録音会場の空気感まで収録しようとする傾向もみられる。環境音というもので、単に残響が長い短いというものではなく、大聖堂であれば低域にグランドノイズがゴーと響くし、狭い室内であれば甲高い竜鳴きが加わるという具合だ。現在のようにコンサートホールが整備されている時代でもないので、従来のホールの中で秩序付けられた楽器配置という定式が成り立たないし、ロケーションの違いに柔軟に対応できるスピーカーを聞いたことがない。これは後に述べるように、ほとんどのスピーカーのタイムコヒレントが不十分で、瞬時に出す音の位相がねじれているからである。
 古楽器の録音にB&K社のマイクが採用された背景には、デジタル録音により時間軸での位相管理がms単位で整理され、ステレオ感の定義がマイクの向きによる位相差から、瞬間的なパルス波の伝達経路の違いに置き換わったことによる。当初はパルス波の単位で正確に収録できるマイクがB&K社しかなかった。難しい話だが、スピーカーの間にポッと浮かんでは消える音像の正体である。私自身は、このステレオ音像には違和感を感じており、実際の会場では音像はポツンとスレンダーにありながら、演奏中に存在感が消えるということがないからだ。演奏家自身がどこか自尊心の塊のようなものなので、存在感は普段の人よりもずっとあって、なおかつ音を出して表現したいことが明らかになるという順序である。
 この出音の順序のアベコベな感覚は、パルス波によって気配だけ先行して再生する状態を「生々しい」と表現することで、実際には基音から倍音に広がる楽器のアコーステックな響きを阻害していることが多い。特に出音の位相がねじれて、ツイーターだけでパルス波を出すスピーカーは、楽器の収録方法によって相性が激しく、結果的に聴く音楽を限定してしまう。具体的には、楽器の音色を重視し近接マイクを好むドイツ~オランダ系の収録方法と、ロケーションの響きを重視するイギリス~ベルギー系の収録方法では、前者はキンキンの硬い音になりやすいし、後者はモゴモゴした曇った音になりやすい。そうしたサウンドキャラクターのハードルを乗り越えて、はじめて演奏の実態に迫れるのだ。


【瞬間での位相管理】
 では、スピーカーでの再生はどうかというと、これがまたあまり芳しくない。よく古楽器は倍音成分が薄いわりに複雑で、高域に繊細な表情が必要だとされる。個人的にはこれは的を得ていると思っていて、リボンツイーターなどを聴くと何となく合点がいく。一方で、過度特性の優れたツイーターの反応スピードに付いてこれる低域~中域のユニットが少なく、ツイーターの音に釣られて神経質なものになりやすい。というのも、ツイーターの音響エネルギーはかなり小さいにも関わらず、反応が早いため低域~中域をマスキングして、楽器の躍動感を埋もれてしまわせる傾向があるからだ。古楽器の録音で一般に感じられるダイナミック感の欠如は、スピーカーのもつ音響エネルギーのアンバランスから来ていると思われる。

 さらに一般的なマルチウェイ・スピーカーは、ネットワークのフィルター特性により、クロスオーバー周波数付近で位相が反転してねじれる。このことでツイーターのみがパルス波をクリアに出し、低域~中域はその後を付いてまわるようになり、基音から倍音に広がるという楽音の基本形が崩れる。ヘッドホンで確認できる楽器の音色が、スピーカーでは難しい理由に、多くのスピーカーで出音の位相がねじれて、高域のキャラクターのみが強調されることが挙げられる。

左:一般的な2wayスピーカーのステップ応答、右:ヘッドホンのステップ応答

 実際にタイムコヒレントのうち位相の整合性を示すステップ応答について、綺麗なライトシェイプを画くスピーカーは非常に少ない。ひとつの解決方法は、ネットワークの必要ないフルレンジを使用することだが、高域の指向性が狭くキャラクターが強い。これは古楽器の倍音を伝えるのが難しい。逆にネットワークに時間遅延を組み込んだスピーカーは、ステップ応答は確かに綺麗だが、反応の遅いところに合わせる傾向があって、音に推進力がないというか、全体にどっしり構えたような鳴り方のものが多い。これは軽快な古楽器の演奏にはマイナス要因になる。


 私の場合は、気まぐれでこういう課題に対処できていて、ギターアンプ用のフィックスドエッジスピーカーを後面解放箱に入れて、リボンツイーターを組合せ、マルチアンプで駆動することで、スピーカーの反応を犠牲にすることなくタイムコヒレントが揃うという結果になった。Jensen C12Rをベースにした私のシステムは、インパルス、ステップの各応答が非常にシャープで、時間的整合性(タイムコヒレント)という点ではトップクラスだ。最初の頂点の小さな2山がリボンツイーターとJensenの反応の差で、Jensenは30cmという巨漢ながらリボンツイーターと同じくらいインパルス応答が鋭いユニットなのだ。ウーハーを後面解放箱に納めることで低音のリバウンドが少ないこと、チャンデバを使ってマルチアンプにしていることなどが功を奏している。



Jensen C12R+Fountek NeoCD2.0(斜め45度試聴位置)

 こうした音の反応の俊敏な特性は、このユニットが開発された1940年代のPA機器の特徴でもある。Jensenの最初の目的は、スイング・ジャズが全盛だった時代に、ギターやボーカルを拡声するための補助機材としてであり、ビッグバンドの生音とガチンコ勝負していた。そこで出音が遅れることは、生楽器の音にマスキングされて埋もれることを意味し、出音のスピードがまず第一条件として設計されていた。古いローファイ機器であり、あざといほどに歪みも多い癖はあるが、アコースティックな楽器と同じようなポテンシャルが秘められている。



斜め45度(試聴位置)からの周波数特性

 システム全体の周波数特性はカマボコ型にみえるが、高域をフラットに整えると、かなりブライトな音調に感じるのは、リボンツイーターの反応とのバランスが自然に感じるボーダーラインだからだろうと思う。

 ステップ応答では、ツイーターの立ち上がりだけ際立たしてウーハーが逆相で繋がってるというのもよくあるので、確認のために3.5kHzで切った状態で測ってみた。結果は、Jensen C12Rは非常にシャープなステップ応答をもっていて、リボンツイーターの応答が隠れてしまっていることが判った。後面解放箱のため低音のリバウンドが少ないというのもあるが、30cm径のコーン紙からリボンツイーターとほぼ互角に出音を弾き出すという驚くべき結果になる。全体に荒っぽいところはあるが、80~15,000Hzという帯域をドバっと吹き出すように音を出す勢いは、何にも代えがたい経験である。



3.5kHzクロスでのステップ応答(上段:Jensen C12R、下段:Fountek NeoCD2.0)


 あとライントランスを設けているのは、超高域に溜まっているデジタル録音特有のパルスノイズが苦手だからだ。AD変換時のパルスノイズは楽音に関係なく発生するので、全体にザワザワしているように感じたり、演奏と関係ない合図が乱発されたりと、CD再生で超高域まで伸びていることにメリットを感じない。

【モノラルこそ自然体】
 もうひとつの課題は、録音ごとに異なるロケーションの差をどう詰めるか? ということだが、私自身はスピーカーでこの手の正確な再現は、そもそも無理だという結論だ。ステレオという再生方法を取ることで、ステレオ装置そのものの音響的な癖のほうが大きく、ロケーションの向こうに居る演奏者の実像まで辿り着けないのである。あえていえば、ステレオ効果そのものが、演奏行為を聴くうえでジャマだと感じている。
 そこでマイクに収録された音の再現という原点に返れば、モノラル再生でも十分に対応できると悟った。モノラルにすることで、余計なロケーションの舞台セットを省略して、直接に演奏者のパフォーマンスを聴き取れる。つまりステレオ再生は、ロケーションの再生に大きな労力を割いている割には、その成果が出難いという欠点がある。
 1本のスピーカ-でのモノラル再生を、私はあえて点音源拡散音響(One Point Spreading Sound)と呼んでみようと思う。以下の図は、点音源の現実的な伝達のイメージである。モノラルからイメージする音は左のような感じだが、実際には右のような音の跳ね返りを伴っている。私たちはこの反響の音で、音源の遠近、場所の広さを無意識のうちに認識する。風船の割れる音で例えると、狭い場所で近くで鳴ると怖く、広い場所で遠くで鳴ると安全に感じる。


左;無響音室でのモノラル音源 右:部屋の響きを伴うモノラル音源


 こうした無意識に感じ取る音響の質は、左右のスピーカーの位相差だけではないことは明白である。つまり、音源はひとつでも両耳は位相差を捉えており、壁や天井の反響を勘定に入れた音響を基準にして、録音会場の音響の違いに明瞭な線引きが可能となる。この線引きが必要なのは、コンサート会場のように視覚的要素がない状態では、音の近さ広さというのが曖昧なためだ。おそらく録音しているエンジニアも時代や国柄によって基準がそれぞれ違うと思われる。例えばデッカとフィリップスのウィーン・フィルの音の違いなど、求める物や表現の手段としてステレオ感が存在するようになる。これが見たことも触れたこともない楽器の音となればどうだろうか。楽器そのものよりもロケーションの響きのほうに、ほとんど気を取られていることは明白である。


 一方で、モノラルで聴くことで、音場感が再現できないのではないか? という疑問もあるだろうが、むしろ現実のパースフェクティブから考えると、ほとんどの楽音は広い空間の中で点のように小さく、むしろ楽音の周辺を響きが覆っているように聞こえる。モノラルで聴くと、楽音と残響の時間軸が整理されて、楽音の後を追うように残響音が出ることが判り、ロケーションの響きを中心に聴くより、このほうがずっと自然なのだ。単純にはモノラル試聴のほうが楽音にピントが合いやすい。
 同じ原理で、楽器間の定位の再現はどうかというと、これも残響音とのバランスで遠近は容易に判断が付く。これは音量が大きい、小さいに関わらず、録音時のマイク位置によって不変の特徴として聞き取れる。現在のステレオの定位感の多くは高域のパルス波のタイミングの左右差に頼っているので、風切り音のような気配を必要以上に強調する傾向があり、これが残響音との時間軸のバランスを欠落させ、音量によって音像が膨らんだり縮んだりする。これは音量で低域~中域の明瞭さが変わり、残響音に埋もれたり、逆に飛び出したりするような錯覚を起こすのである。モノラルでタイムコヒレントを保証すれば、左右の差は単純な時間差だけで整理されるので、響きのなかに埋まることも飛び出すこともない。単純に遠いか、小さいか、という、録音当初からの違いだけが明瞭になり、このことによって演奏者同士のコミュニケーションを楽音として聞きとることに集中できる。このことは、音量のバランスとして高域が足らない、低域が足らないという議論から解放され、むしろ小さくても鳴らしてさえいれば、そこにある音として認識できることも示す。


 ここでモノラルで聴くことの特徴をまとめると、以下のようになる。

①楽音と残響音を、音場の広がりではなく、時間軸の違いでとらえなおす
②残響のなかでの音像の大小を、単純な音量の大小で整理する
③音響的なフラットではなく、時間軸の整合性で聴き取る


 ステレオ技術で養ってきた、音場感、定位感、フラット再生というものが、実は人工的な音響技術であり、そういう技術のできる以前に設計されたJensenの楽器用スピーカーから得られる情報は、スピーカーが生楽器と対峙した時代の名残をとどめている点で、とても興味深い結果となった。





 さて、ここからが本題であるが、18世紀の音楽文化がウィーン古典派に集結するとすれば、他の芸術、文学や美術などとの関連はどうなのだろうか?
 例えば、デフォー「ロビンソン・クルーソー」からゲーテ「若きウェルテルの悩み」まで、小説で展開される精神世界と、古典派音楽のそれはほとんどリンクしない。むしろ美学の方向性が違うというべきだろうか、小説の複雑怪奇な迷宮に比べれば、ソナタ形式は子供のおもちゃのようにみえる。とはいえ、ギリシア神話のメタファから現実の事柄に抜け出したのは、モーツァルトのダ・ポンテ三部作から伺える。メロドラマへの挑戦は「魔笛」にみられるが、むしろバッハの受難曲のほうにドラマを感じるのは、福音史家のような語り部が不在だからだろう。筋立てを音楽のモチーフとして表現するまでに、交響詩というステップを踏まなければならない。この時代の奇想天外な小説を中心に考えると、18世紀の音楽界は乖離していると言わざるをえない。その意味では、別の視点が必要になるのだ。

左:「若きウェルテルの悩み」挿絵、右:チッペンデール様式の家具

 逆に美術と比べると、ブーシェのロココ趣味、ダヴィッドの新古典絵画など、写実性と装飾性の類似をみることができるだろう。その意味で、クラシック音楽の古典主義は、機能和声とソナタ形式のフォルム重視なのだ。私個人は、こうした古典派音楽の形式重視は、あたかも日常で使う家具のように、ある種の機能性の約束事であって、その機能性はアマチュア演奏家の台頭によって説明できるかもしれない。この演奏者からみた機能性という側面を、絶対音楽、標題音楽という鑑賞者の目線で区分けしてはならないと思うのだ。チッペンデール様式の家具が今でも人気のあるのは、装飾性と機能性が融和しているからで、同時代のフランスのジャコビアン様式の家具の座り心地の悪さは、ファッションのためなら我慢したという感想を持たざるをえない。ちなみにファッションに着心地という発想が生まれたのは、20世紀のココ・シャネルまで待たなければならない。


カントリーダンスに興じる人々

 絵画でも、ウィリアム・ブレイクの幻想画、ターナーの風景画など、水彩での作品には、自由な発想で書かれたものも存在する。芸術の分野では評価が低いが、カリカチュア(風刺画)は主題をデフォルメしている点で、むしろ小説の挿絵としても使われた。そのように考えれば、現在の日本におけるライトノベルからアニメに続く伏線や、アニソンを打ち込み系マニエリスムの彼岸として捉えることも可能だろう。

 古典派音楽を、生活を彩る機能性から考え、座り心地、着心地に続く、耳ざわりの良さというものに注目すると、その考え方が整理されるように思うのだが、皆さんはいかがだろうか?


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