●20世紀的脱Hi-Fi音響論(シーズンオフ・トレーニング)
我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「聖なる音」は、ジェンセンの安物スピーカーでモノラル・システムを構築し、中世ヨーロッパのロマンスなるものに憧れたりする状況をモニターします。。。。の前に断って置きたいのは 1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です) 2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします) 3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます 4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます) という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。 |
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聖なる音
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【中世ネタはアニメの常識】 のっけから他愛もない話で恐縮だが、日本ほど中世ヨーロッパの文化を愛している国民は、世界的にみても稀有である。真偽のほどは別として、昔からアニメの主人公に魔法使いがいて、それも白雪姫に出てくるような悪者ではなく、可愛らしい少女が魔法の練習に励むという鉄板モノが存在する。メイド服のようなコスチュームも、16世紀には普通にみられた庶民の服装である。ロールプレイング・ゲームでは、ドラゴン・クエスト、ゼルダの冒険など、魔族、妖精など異形の生物も交えて、時代も場所も不明だが、中世の旅人が城郭都市を巡り歩く世界観が根底にある。最近のアニメで面白かったのは「狼と香辛料」「テガミバチ」「クジラの子らは砂上に歌う」など、中世ヨーロッパを基礎にデザインされるものは多い。中世ヨーロッパを題材にしたアニメのなかの当世音楽は、どちらかというとフォーク~トラッド系の影響を受けており、その辺の思想史をちゃんと知りたいと思う一方で、むしろファンタジーとして想像の翼を得やすいという一面もあるのだろう。 左:ゲントのフランドル伯城、右:貴婦人を守護する栄誉に賜る騎士 中世への憧憬は、18世紀末イギリスの産業革命時に現れたゴシック小説と関連性があるだろう。それまでのゴシックの概念は、異教的でゲルマン的な未開拓な時代のイメージであり、むしろ蔑むべき対象だった。そこに人間の理性では図り知ることのできないゴシックのイメージは、むしろ近代社会の未知のフロンティアとして出現したのである。その後のゴシック・リヴァイバルは19世紀のもうひとつの顔であり、ワーグナーの楽劇で頂点に達する。一方で、ゴシック時代のデザイン性は、フランスのアールヌーボーやイギリスのアーツ&クラフツ運動に結びついて、実用的な生活調度品へと展開されていく。この時代の精神史について生活習慣から導き出したホイジンガ「中世の秋」は、ゴシック時代の人々がとる奇妙な行動についての案内人になってくれるだろう。 中世ヨーロッパの面白さは、第一に今では失われてしまった人間臭い風情であり、それが都会生活という閉鎖された空間でギュウギュウ詰めにされておらず、アッシジのフランチェスコのような自然感とどこかでリンクしているように感じられる点である。これはヒルデガルト・フォン・ビンゲンのような超絶な神秘主義者にも共通する宇宙観ともいえるだろうか。その自由な風情が生まれる背景は、人間がだれしも抱く人生のシナリオ、野望とか名誉にしがみついた生き様をいかに放棄できるか、ということに尽きると思う。既に崩壊した古代ローマ文明を横目で見ながら、成り行きに身を任せる生き方を再構築する必要性があったように思う。そのなかで自ら声を発するという行為には、精神的なものが外的なものに向かう解放感が希求されているように思える。それは現実には適うことのない魂の自由への希求であり、まだ見ぬ天国に向けた思いを託しているように思える。むしろ、私たち自身が人間の殻から離れることができず、豊かに過ごすことだけを生活の手段として考えていることについて、今一度振り返る機会を提供してくれるように思えるのだ。 【音楽はイヴェント開催の知らせ】 中世ヨーロッパの音楽は、今のようなコンサートという音楽鑑賞の習慣はなく、何かしらの集会における機会音楽として供された。「ついで」と言っては何だが、音楽は行事を盛り上げるために欠かせないものだが、それが主な目的で集まることは悦楽的ということで隠避されていたのだ。公共で音楽を供するために特別な理由が必要で、例えば楽譜の残されたモテットやミサ曲の多くは、聖堂の奉献式や特別な祝日のために委嘱~献上されたものである。 現在「音楽作品」として鑑賞の対象となるモテットが、大聖堂のような大都市のものだとすれば、より小さな村落へと進出した修道院や信心会のようなところでの宗教活動は、セクエンツィア、ラウダのような、より文学としての趣向が強いものも存在した。修道院の働きは、瞑想と執り成しが基本にあるが、中世の文化的中心であり、文学的知識のほか、生活に必要な農業、建築の知識、薬草学、医学のような科学分野にもおよんだ。庶民の信心には、美しい写本で残された時祷集があり、季節ごとのキリストや聖人の祝日、祈りの文言のほうに重きがあり、そこから派生する賛歌があった。このうちの音楽は、算術、幾何、天文と並ぶ数学四科のひとつに数えられていながら、ローマ時代のアウグスティヌスが音楽のもつ扇情的な要素を批判したため、教会音楽が打楽器などを伴わない抑制的なものと理解されている。 また騎士道文化のなかに、直接的な性交渉に走らず、純愛を歌にして奏でることが高貴の現れとして、吟遊詩人(トルバドゥール)が流行したこともあった。優れた歌を競うための特別な歌会もあったが、剣術を競う模擬戦を前後して意中の人に捧げられる場合もあり、高貴な恋愛行動というものは、貴族にとって念願でもあった。このため晩餐会における音楽というのも重要で、食卓の音楽(ターフェルムジーク)は18世紀まで続く宮廷楽団の職務のひとつだったが、演奏家個々人の名では知られず、領主の楽団ということで存在が知られた。 こうしたなかで、個人名で知られる音楽家たちが出てくるのは14世紀以降で、よりよい処遇を求めて各地を転々とする折に名声を博した。また多くの領主が自身の楽団が演奏する優れた作品を求めていたことから、貴賓として招かれた音楽家の楽曲が複数の地域で写本として残されることもあった。いわゆる楽壇というものが徐々に形成されつつあり、その鑑賞眼そのものが高貴の証しとも考えられた。ハプスブルク家は、自身の出自であるブルゴーニュ地方のポリフォニーを綺麗な写本にして、ヨーロッパ中の臣下にプレゼントするという行動によって、国際フランドル様式をオフィシャルなものとした。 11世紀から16世紀にいたる文芸復興のち、おそらく最も遅れていたのは美術の分野であり、裸体に対する偶像的な要素から、神の創造の神秘にまでいたるまで、大きな思想の飛躍が必要だった。このためルネサンス芸術において、中世と一番コントラストの強いものは美術の分野であるといえる。 これらを総合すると、中世ヨーロッパの音楽とは、大聖堂や王侯という絶対的な権力のもとで、公序良俗に沿った高貴なものが残されているということができよう。その意味では、時の領主が「このようにあってほしい」と願った言葉のイメージが、リアルな中世の人々の姿よりも理想形として描かれているように思う。この建前と本音の二重底のイメージが、中世ヨーロッパのラビリンス(迷宮)となって、現代人を惹き込んでいくのである。 【ワークショップからテーマパークまで】 現在でいう中世ヨーロッパの音楽には、「見せ方」というものがあって、CD1枚が博物館の展示室のようにテーマが決められている。大きな枠組みとして考えると以下のようになる。
日本ではこうした演奏会やワークショップが定期的に開かれるわけでもなく、しかも情報が隔たっているので比較検討ということができない。とはいっても、ヨーロッパでもそれほど盛んなわかでもなく、こうしたパッケージ化された情報はありがたいといえる。ジョルディ・サヴァール氏などは、CDブックという出版方法で、読み物としての一面も兼ね備えた歴史絵巻を連続して企画している。おそらく、こうした企画物は演奏家のアイディアに留まらず、バーゼル・スコラ・カントルムのような研究機関でも広く運用されていくものと思われる。レコード・レーベルとは別に、WDR(西ドイツ放送局)、フォントヴロー修道院などの文化財団の働きも、古楽録音のブランドとして見直して良いかもしれない。 一方で、現在の情報化社会のなかで、中世ヨーロッパに関する情報は、図書館のデジタルアーカイヴをはじめ、飛躍的に身近になったといえる。例えば、ハイデルベルクのマネッセ写本、ハート型のシャンソン集「シャンソニエ・コルディフォルム」など、有名な写本は図書館による精彩なPDFファイルが無料で公開されている。20世紀のうちは、多くは校訂を経て現代譜に移し替えられたものが一般に手に入るだけで、そのような写本をじっくり観るためには、高額なファクリミリを蒐集することから始まり、そのような出費が自分にとってどれだけ必要なのかを見極めた人だけが購入していたに過ぎない。それが出版という利権を超えて急激にインターネットで公開を始めたわけで、正直その情報量とスピードに追いついていけないのが現実である。その意味で、音のアーカイヴとしてのCD出版が一般の商業ベースで営まれているのは、とても不思議な現象というべきかもしれなし、自分でも飽きもせず定期的にコレクションに加えているのも謎のままである。 以下は中世音楽について、色々な示唆を与えてくれる書物だが、文献学から得られる音楽に関する情報は少ないというのが実際である。美術史や宗教学に比べ、その方法論さえもまだ十分に確立されていないとも感じる。
こうした文献的な手掛かりの薄さから、1960年代までの中世ヨーロッパの音楽観は、グレゴリオ聖歌とオルフ「カルミナ・ブラーナ」という両極端に引き裂かれており、モンテヴェルディ「オルフェオ」さえもが同じテリトリーに分類される程度であった。 1980年代に入り、ルネサンス音楽のうち15世紀のデュファイやオケゲムが注目されるに至って、ようやくバッハ以前の音楽から、ルネサンス以前へ、さらにノートルダム楽派、アルス・ノヴァ、アルス・スブティリオルの違いが録音で確認できるようにレパートリーが拡充された。 おそらくこの合間を縫って、中世の放浪人生への憧憬がフォーク音楽に流入したため、現在でも中世的な和みの情景にルネサンスの舞踏曲が多用されるように思う。確かにブリューゲルの描いた農民の踊る姿は、中世の彼岸にある人間の姿でもあっただろう。そこではギターで伴奏できるものが、3度音程を協和音として扱う15世紀以降のものであり、さらに16世紀末のダウランドなどリュート歌曲、プレトリウスやレイヴンズクロフトの舞曲集によって、放浪楽師の手がかりがようやく得られるからだ。 もうひとつの系譜は、ケルト音楽をはじめとするトラッド系で、チーフタンズやエンヤを思い浮かべることができるだろう。ただしアイルランドの伝統楽器は、どの民族音楽にも共通するように基本的に18世紀以降のものであり、身近にあった楽器を民謡の演奏に使用したことから始まる。そういう意味では、古楽器というものにしがみついていてもしょうがないのかもしれない。あとあまり知られていないが、アメリカのゴスペル唱法は、スコッチ=アイリッシュに残る聖歌唱法に端を発している。 日本における中世ヨーロッパを舞台とするファンタジーは、古代ローマよりもケルト神話によるところが多く、この点が実際のヨーロッパの見方と大きく違うところであるが、ケルト神話の妖精、ドルイド神官などは、都市国家からみた異形の存在として描かれる点は、民族に対するヒエラルキーは温存したままである。ヨーロッパが古代ローマの後継者として自己認識した背景を考えると、異形の存在を自己のうちで差別的に認識することも含まれており、文化的発展というような単純な仕組みではない。こうした悲喜こもごもの見解のうちに、フランチェスコ、ヒルデガルトのような宇宙観をもつ魅力的な人物も表われるのであり、宇宙観と人間性を一体化させた表現方法として、中世音楽が模索されているとも考えられる。 21世紀の中世音楽演奏は、20世紀における名作鑑賞というクラシック・コンサートの枠組みから出て、ワークショップ型の体験を共にするというものに変わりつつあり、音楽だけに留まらずライフスタイル全体と切り離すことができないように感じる。誰もがマエストロとしての尊敬が前提にあるクラシック界において、中世の下僕としての謙遜はそもそも馴染みのないものであり、演奏家自身が中世ヨーロッパの精神性に強く共感しているように思える部分も少なくない。その意味では、音楽史も「名曲」案内と「発展」史という批評的枠組みを解体する必要があり、その点ではポップスのミュージシャンと同等の立場をもっているかもしれない。ポップスにあって古楽にないのは、商業的なバックアップだけである。 以上のように、中世における高貴なものを希求しながら、音のアーカイヴとしての展示方法、はたまた現在社会のしがらみからの精神の解放など、万華鏡のような中世ヨーロッパの音楽を、オーディオとしてどう捉えればいいか? 例のごとく自己流で話題を提供していきたいと思う。
オーディオでの音楽鑑賞というのは、一種の仮想現実的なものであるが、相手が中世ヨーロッパともなると、現代の文明からすれば異世界そのものである。否、むしろ私たちの住んでいる現代社会こそが、中世からみて異世界そのものなのだ。一方で、人間の思考そのものはそれほど進歩していないように思える。例えば、人間の五感(視覚、聴覚、味覚、臭覚、触感)は何千年に渡り基本的に変わっておらず、聴覚のほうは機械騒音のなかでむしろ鈍化しているとも言える。オーディオも人間の聴覚にそった仮想現実によって成り立っているが、オーディオ装置にも人間工学的な自然さを希求して良いように思う。その意味で自然なアコーステックを基本にしている中世音楽は格好の題材なのだ。 |