20世紀的脱Hi-Fi音響論(シーズンオフ・トレーニング)


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「聖なる音」は、ジェンセンの安物スピーカーでモノラル・システムを構築し、中世ヨーロッパのロマンスなるものに憧れたりする状況をモニターします。
聖なる音
【中世ネタはアニメの常識】
【ステレオという仮想現実物体X】
冒険は続く
自由気ままな独身時代
結婚後のオーディオ
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。


聖なる音

【中世ネタはアニメの常識】

 のっけから他愛もない話で恐縮だが、日本ほど中世ヨーロッパの文化を愛している国民は、世界的にみても稀有である。真偽のほどは別として、昔からアニメの主人公に魔法使いがいて、それも白雪姫に出てくるような悪者ではなく、可愛らしい少女が魔法の練習に励むという鉄板モノが存在する。メイド服のようなコスチュームも、16世紀には普通にみられた庶民の服装である。ロールプレイング・ゲームでは、ドラゴン・クエスト、ゼルダの冒険など、魔族、妖精など異形の生物も交えて、時代も場所も不明だが、中世の旅人が城郭都市を巡り歩く世界観が根底にある。最近のアニメで面白かったのは「狼と香辛料」「テガミバチ」「クジラの子らは砂上に歌う」など、中世ヨーロッパを基礎にデザインされるものは多い。中世ヨーロッパを題材にしたアニメのなかの当世音楽は、どちらかというとフォーク~トラッド系の影響を受けており、その辺の思想史をちゃんと知りたいと思う一方で、むしろファンタジーとして想像の翼を得やすいという一面もあるのだろう。
 
左:ゲントのフランドル伯城、右:貴婦人を守護する栄誉に賜る騎士

 中世への憧憬は、18世紀末イギリスの産業革命時に現れたゴシック小説と関連性があるだろう。それまでのゴシックの概念は、異教的でゲルマン的な未開拓な時代のイメージであり、むしろ蔑むべき対象だった。そこに人間の理性では図り知ることのできないゴシックのイメージは、むしろ近代社会の未知のフロンティアとして出現したのである。その後のゴシック・リヴァイバルは19世紀のもうひとつの顔であり、ワーグナーの楽劇で頂点に達する。一方で、ゴシック時代のデザイン性は、フランスのアールヌーボーやイギリスのアーツ&クラフツ運動に結びついて、実用的な生活調度品へと展開されていく。この時代の精神史について生活習慣から導き出したホイジンガ「中世の秋」は、ゴシック時代の人々がとる奇妙な行動についての案内人になってくれるだろう。

 中世ヨーロッパの面白さは、第一に今では失われてしまった人間臭い風情であり、それが都会生活という閉鎖された空間でギュウギュウ詰めにされておらず、アッシジのフランチェスコのような自然感とどこかでリンクしているように感じられる点である。これはヒルデガルト・フォン・ビンゲンのような超絶な神秘主義者にも共通する宇宙観ともいえるだろうか。その自由な風情が生まれる背景は、人間がだれしも抱く人生のシナリオ、野望とか名誉にしがみついた生き様をいかに放棄できるか、ということに尽きると思う。既に崩壊した古代ローマ文明を横目で見ながら、成り行きに身を任せる生き方を再構築する必要性があったように思う。そのなかで自ら声を発するという行為には、精神的なものが外的なものに向かう解放感が希求されているように思える。それは現実には適うことのない魂の自由への希求であり、まだ見ぬ天国に向けた思いを託しているように思える。むしろ、私たち自身が人間の殻から離れることができず、豊かに過ごすことだけを生活の手段として考えていることについて、今一度振り返る機会を提供してくれるように思えるのだ。

【音楽はイヴェント開催の知らせ】
 中世ヨーロッパの音楽は、今のようなコンサートという音楽鑑賞の習慣はなく、何かしらの集会における機会音楽として供された。「ついで」と言っては何だが、音楽は行事を盛り上げるために欠かせないものだが、それが主な目的で集まることは悦楽的ということで隠避されていたのだ。公共で音楽を供するために特別な理由が必要で、例えば楽譜の残されたモテットやミサ曲の多くは、聖堂の奉献式や特別な祝日のために委嘱~献上されたものである。
 現在「音楽作品」として鑑賞の対象となるモテットが、大聖堂のような大都市のものだとすれば、より小さな村落へと進出した修道院や信心会のようなところでの宗教活動は、セクエンツィア、ラウダのような、より文学としての趣向が強いものも存在した。修道院の働きは、瞑想と執り成しが基本にあるが、中世の文化的中心であり、文学的知識のほか、生活に必要な農業、建築の知識、薬草学、医学のような科学分野にもおよんだ。庶民の信心には、美しい写本で残された時祷集があり、季節ごとのキリストや聖人の祝日、祈りの文言のほうに重きがあり、そこから派生する賛歌があった。このうちの音楽は、算術、幾何、天文と並ぶ数学四科のひとつに数えられていながら、ローマ時代のアウグスティヌスが音楽のもつ扇情的な要素を批判したため、教会音楽が打楽器などを伴わない抑制的なものと理解されている。
 また騎士道文化のなかに、直接的な性交渉に走らず、純愛を歌にして奏でることが高貴の現れとして、吟遊詩人(トルバドゥール)が流行したこともあった。優れた歌を競うための特別な歌会もあったが、剣術を競う模擬戦を前後して意中の人に捧げられる場合もあり、高貴な恋愛行動というものは、貴族にとって念願でもあった。このため晩餐会における音楽というのも重要で、食卓の音楽(ターフェルムジーク)は18世紀まで続く宮廷楽団の職務のひとつだったが、演奏家個々人の名では知られず、領主の楽団ということで存在が知られた。
 こうしたなかで、個人名で知られる音楽家たちが出てくるのは14世紀以降で、よりよい処遇を求めて各地を転々とする折に名声を博した。また多くの領主が自身の楽団が演奏する優れた作品を求めていたことから、貴賓として招かれた音楽家の楽曲が複数の地域で写本として残されることもあった。いわゆる楽壇というものが徐々に形成されつつあり、その鑑賞眼そのものが高貴の証しとも考えられた。ハプスブルク家は、自身の出自であるブルゴーニュ地方のポリフォニーを綺麗な写本にして、ヨーロッパ中の臣下にプレゼントするという行動によって、国際フランドル様式をオフィシャルなものとした。
 11世紀から16世紀にいたる文芸復興のち、おそらく最も遅れていたのは美術の分野であり、裸体に対する偶像的な要素から、神の創造の神秘にまでいたるまで、大きな思想の飛躍が必要だった。このためルネサンス芸術において、中世と一番コントラストの強いものは美術の分野であるといえる。
 これらを総合すると、中世ヨーロッパの音楽とは、大聖堂や王侯という絶対的な権力のもとで、公序良俗に沿った高貴なものが残されているということができよう。その意味では、時の領主が「このようにあってほしい」と願った言葉のイメージが、リアルな中世の人々の姿よりも理想形として描かれているように思う。この建前と本音の二重底のイメージが、中世ヨーロッパのラビリンス(迷宮)となって、現代人を惹き込んでいくのである。

【ワークショップからテーマパークまで】
 現在でいう中世ヨーロッパの音楽には、「見せ方」というものがあって、CD1枚が博物館の展示室のようにテーマが決められている。大きな枠組みとして考えると以下のようになる。
  • 音楽作品を当時の楽譜、楽器で表現する(ディテールの再現)
  • 音楽の奏される場の音響を体験できるようにする(ロケーションの設定)
  • 音楽を取り巻く文化を理解しやすいように作品を陳列する(メニューの策定)
 つまり、個々の演奏技術が優れているだけでなく、その背景となる舞台セット、物語の筋立てまで、全てを考えたうえで、中世ヨーロッパの音楽鑑賞は完結するとも言えよう。いわゆる箱物を前提にしたコンサート・プログラムというものではなく、テーマパークに匹敵する構想がモノを言う。とはいえ、全くの想像で物を言うのでもなく、例えば、礼拝順序を組み立てる典礼文の研究、一冊の写本を取り巻く文化の探求など、地道な資料の探求がベースにあってのものである。その意味では、学究の成果を録音という手段で公開するという考え方もあり、出版事業の一環として捉えることも可能だ。
 日本ではこうした演奏会やワークショップが定期的に開かれるわけでもなく、しかも情報が隔たっているので比較検討ということができない。とはいっても、ヨーロッパでもそれほど盛んなわかでもなく、こうしたパッケージ化された情報はありがたいといえる。ジョルディ・サヴァール氏などは、CDブックという出版方法で、読み物としての一面も兼ね備えた歴史絵巻を連続して企画している。おそらく、こうした企画物は演奏家のアイディアに留まらず、バーゼル・スコラ・カントルムのような研究機関でも広く運用されていくものと思われる。レコード・レーベルとは別に、WDR(西ドイツ放送局)、フォントヴロー修道院などの文化財団の働きも、古楽録音のブランドとして見直して良いかもしれない。
 一方で、現在の情報化社会のなかで、中世ヨーロッパに関する情報は、図書館のデジタルアーカイヴをはじめ、飛躍的に身近になったといえる。例えば、ハイデルベルクのマネッセ写本、ハート型のシャンソン集「シャンソニエ・コルディフォルム」など、有名な写本は図書館による精彩なPDFファイルが無料で公開されている。20世紀のうちは、多くは校訂を経て現代譜に移し替えられたものが一般に手に入るだけで、そのような写本をじっくり観るためには、高額なファクリミリを蒐集することから始まり、そのような出費が自分にとってどれだけ必要なのかを見極めた人だけが購入していたに過ぎない。それが出版という利権を超えて急激にインターネットで公開を始めたわけで、正直その情報量とスピードに追いついていけないのが現実である。その意味で、音のアーカイヴとしてのCD出版が一般の商業ベースで営まれているのは、とても不思議な現象というべきかもしれなし、自分でも飽きもせず定期的にコレクションに加えているのも謎のままである。

 以下は中世音楽について、色々な示唆を与えてくれる書物だが、文献学から得られる音楽に関する情報は少ないというのが実際である。美術史や宗教学に比べ、その方法論さえもまだ十分に確立されていないとも感じる。
グロケイオ「音楽論」
1300年を前後して、パリ大学を中心とした、音楽の区分や特徴について述べた書物。本文の訳文とそれと同じ量の註釈、さらに倍の分量の研究論文が続く。時代的に音楽様式の移行期にあったことも含め、著述が網羅的であり、教会音楽の単旋律、多声音楽の違い、礼拝での使用状況、器楽曲、世俗曲までの言及など、それぞれの記述は短いながらまとまっているのが便利。
ザルメン「音楽家の誕生」
中世そのものの記述よりも、盛期ルネサンスの音楽家の職務についての記述が豊かで参考になる。食卓の音楽、オルガニスト、助祭の活動など、それぞれの職業としての音楽のもつシチュエーションが、社会秩序のなかに結びつけられていたことが判る。この意味では、音楽家の自由が制限されていたということもいえるが、むしろ音楽は楽しく自由なものとして迎えられていたように思うのは、それほどおかしなことでもないと感じる。

 こうした文献的な手掛かりの薄さから、1960年代までの中世ヨーロッパの音楽観は、グレゴリオ聖歌とオルフ「カルミナ・ブラーナ」という両極端に引き裂かれており、モンテヴェルディ「オルフェオ」さえもが同じテリトリーに分類される程度であった。
 1980年代に入り、ルネサンス音楽のうち15世紀のデュファイやオケゲムが注目されるに至って、ようやくバッハ以前の音楽から、ルネサンス以前へ、さらにノートルダム楽派、アルス・ノヴァ、アルス・スブティリオルの違いが録音で確認できるようにレパートリーが拡充された。


 おそらくこの合間を縫って、中世の放浪人生への憧憬がフォーク音楽に流入したため、現在でも中世的な和みの情景にルネサンスの舞踏曲が多用されるように思う。確かにブリューゲルの描いた農民の踊る姿は、中世の彼岸にある人間の姿でもあっただろう。そこではギターで伴奏できるものが、3度音程を協和音として扱う15世紀以降のものであり、さらに16世紀末のダウランドなどリュート歌曲、プレトリウスやレイヴンズクロフトの舞曲集によって、放浪楽師の手がかりがようやく得られるからだ。
 もうひとつの系譜は、ケルト音楽をはじめとするトラッド系で、チーフタンズやエンヤを思い浮かべることができるだろう。ただしアイルランドの伝統楽器は、どの民族音楽にも共通するように基本的に18世紀以降のものであり、身近にあった楽器を民謡の演奏に使用したことから始まる。そういう意味では、古楽器というものにしがみついていてもしょうがないのかもしれない。あとあまり知られていないが、アメリカのゴスペル唱法は、スコッチ=アイリッシュに残る聖歌唱法に端を発している。
 日本における中世ヨーロッパを舞台とするファンタジーは、古代ローマよりもケルト神話によるところが多く、この点が実際のヨーロッパの見方と大きく違うところであるが、ケルト神話の妖精、ドルイド神官などは、都市国家からみた異形の存在として描かれる点は、民族に対するヒエラルキーは温存したままである。ヨーロッパが古代ローマの後継者として自己認識した背景を考えると、異形の存在を自己のうちで差別的に認識することも含まれており、文化的発展というような単純な仕組みではない。こうした悲喜こもごもの見解のうちに、フランチェスコ、ヒルデガルトのような宇宙観をもつ魅力的な人物も表われるのであり、宇宙観と人間性を一体化させた表現方法として、中世音楽が模索されているとも考えられる。

 
21世紀の中世音楽演奏は、20世紀における名作鑑賞というクラシック・コンサートの枠組みから出て、ワークショップ型の体験を共にするというものに変わりつつあり、音楽だけに留まらずライフスタイル全体と切り離すことができないように感じる。誰もがマエストロとしての尊敬が前提にあるクラシック界において、中世の下僕としての謙遜はそもそも馴染みのないものであり、演奏家自身が中世ヨーロッパの精神性に強く共感しているように思える部分も少なくない。その意味では、音楽史も「名曲」案内と「発展」史という批評的枠組みを解体する必要があり、その点ではポップスのミュージシャンと同等の立場をもっているかもしれない。ポップスにあって古楽にないのは、商業的なバックアップだけである。

 以上のように、中世における高貴なものを希求しながら、音のアーカイヴとしての展示方法、はたまた現在社会のしがらみからの精神の解放など、万華鏡のような中世ヨーロッパの音楽を、オーディオとしてどう捉えればいいか? 例のごとく自己流で話題を提供していきたいと思う。



【ステレオという仮想現実物体X】


 オーディオでの音楽鑑賞というのは、一種の仮想現実的なものであるが、相手が中世ヨーロッパともなると、現代の文明からすれば異世界そのものである。否、むしろ私たちの住んでいる現代社会こそが、中世からみて異世界そのものなのだ。一方で、人間の思考そのものはそれほど進歩していないように思える。例えば、人間の五感(視覚、聴覚、味覚、臭覚、触感)は何千年に渡り基本的に変わっておらず、聴覚のほうは機械騒音のなかでむしろ鈍化しているとも言える。オーディオも人間の聴覚にそった仮想現実によって成り立っているが、オーディオ装置にも人間工学的な自然さを希求して良いように思う。その意味で自然なアコーステックを基本にしている中世音楽は格好の題材なのだ。

【楽曲の解釈と録音方法が結びつく】
 まず手がかりとして、人間の声が一番わかりやすいのだと思うのだが、実はこれが一番難しい。原因の多くは中世の声楽作品はほぼ9割がキリスト教音楽であること、さらに響きの良い石造りの聖堂での録音が多いことで、この「聖堂の響き」というのが日本ではとんと馴染みのないもので、風呂場の鼻歌のように聴こえれば良いという程度に収まりやすい。
 ただ色々と聞き込んでいくと、楽曲の解釈の幅広さは、同じ曲とは思えないような違いがある。例えば、西欧音楽史のなかで最初の多声音楽とされるパリ・ノートルダム楽派の演奏だけでも、私の手元には6団体の録音があり、さらにその周辺の写本まで含めると、実にバラエティーがある。実際にはグレゴリオ聖歌のような単旋律聖歌は、ギリシア正教の聖歌のようにドローンを伴って歌唱された可能性もあり、セクエンツィアのような創作詩を含めると、男性だけの無伴奏で歌われるのを伝統と考えるのは、むしろ司祭制度の維持から来ていることも挙げられよう。さらに演奏会場のロケーションの選び方、ジェンダーの問題、聖俗の区分など、中世の文化をどう捉えるかでも、演奏形態が変化していることが判る。これらは紙に書いた作品論ではなく、音にして聴かなければ判断のしようのないもので、この違いを正しく聞き込むのは、それだけでも一大テーマになってしまう。

マンロウ/ロンドン中世アンサンブル(1975)
 チャーターハウス・スクール礼拝堂(サリー州、旧カルトジオ会修道院)
中世音楽の扉を開いた録音で、従来の文献学的方法論を踏襲した楽譜による比較論評から、実際に音にすることによって示そうとした意味では、その後の古楽の方向性を決定づけたものといえる。
ヒリアード・アンサンブル(1989)
 ボックスグローヴ修道院(サセックス州)
ロンドン中世アンサンブルに参加してたメンバーが独立して組んだアンサンブルで、独ECMによる深い残響のなかで神秘的な色合いの強い録音に仕上がっている。
セクエンツィア(1990)
 聖アマンドゥス教会(ケルン)
ドイツ系レーベルに多い、マイク位置は近く明瞭に録ってから、残響音とミクシングする方法。まだ女性の参加、器楽の併用などが亜流とされていた時代で、神秘のヴェールを剥いで、作品像を明瞭に示そうとしたことが伺える。こうした問題はヒルデガルト・フォン・ビンゲンの録音集を通じて、中世の修道院が持っていた精神的リーダーシップを示すこととなる。
アラ・フランチェスカ(1992)
 ポワシー劇場(フランス)
現代の多目的ホールで録られたものだが、無理にアンビエントマイクで残響を強調しないので、音像も自然でピントが合いやすい。実際のコンサートの音に近く、中世楽器(レプリカ)の音量のバランスなど、演奏形態が把握しやすいのは、むしろ良心的なのかもしれない。こちらはブリジット・レーヌがリーダーのアンサンブルということもあり、女性であることをパッションで押し返そうとはせず、もっと自然に受け止めているように思える。器楽演奏を全面的に取り入れることで、聖俗の垣根を超えていこうとする点でも、実際には芯の強い考えが詰まっているように思う。
シュミット&ビンクレー/バーゼル・スコラ・カントゥルム(1999)
 ゼーヴェン教会(カントン州、スイス)
19世紀に建造されたロマネスク聖堂での録音だが、深い残響のなかで小さな音像がしっかり録れてる。オルガヌムを歌う聖歌隊のメリスマの効果、単旋律聖歌を応唱する司祭達の距離感など、礼拝のなかでのそれぞれの役割を含めたロケーションまで提示しようとした野心的な内容なのだが、遠巻きのマイク位置のため、なかなかそのパッションは伝わりにくいのも事実。かなり再生機器を選ぶ録音である。
ローレンス=キング/ハープ・コンソート(2003)
 聖ミシェル修道院(ティエラシュ、フランス)
18世紀に建造された修道院での収録で、祝祭日に参加する様々な身分の人々を時系列で追って演奏するプログラム。こうした歴史絵巻のような演目は、ルネ・クレマシックが得意とし、最近ではジョルディ・サバールがルネサンス音楽をシリーズ化しているが、ローレンス=キングは映像作品のようなくだけた雰囲気で紹介している。誰でもワークショップのネタにしやすい点では、実用的と言えば実用的という心の広さを感じる。


 実際の聖堂での音響は、ただエコーが長いというだけでなく、人間の立ち姿がピンと際立ったように定位している。一方で、ステレオ理論ではエコー成分は逆相として定位感を乱すので、定位感と響きのバランスが取りにくい。このバランスの乱れる原因は、反響音の違いが聞き取りやすい高域の反応スピードに対し、実声の出ている中低域の反応が遅くマスキングされていることからくる。単純にはウーハーの反応がツイーターより遅いということになる。
 もうひとつバランスの整理が付きにくい原因として、現在のステレオの仮想サウンドステージは、1970年代にBBCの研究チームによりイギリスの音楽ホール(キングズウェイ・ホールなど)を基準に整備されたものだが、その理屈がイタリアやフランスに残るような長い残響の聖堂には通じない。個人的には、CDを購入したとき、どの録音に当たっても、そのシチュエーションの違いから分析することになる。その後に演奏者のパフォーマンスの分析にはいるような具合で、霞の向こうに佇む人物の顔を特定するような違和感を常に感じるのである。

1969年からBBCで始まった小型スピーカーによる仮想音像の実験


盛期ルネサンス期のミサの状況(アントワープ)


オランダ農村での祝祭日の様子

 上記を見て明らかに判るのは、ステレオのモデルとするサウンドステージについて、古楽の世界は反旗を翻したことである。それは、ステレオがステージと客席を分けたヒエラルキーを強いることにあり、公のイヴェントのなかで聴き手も一体化した祝祭のイメージとは全く逆のことである。中世ヨーロッパという体験型アトラクションの仕掛けを再現することは、オーディオに突き付けられた課題のひとつなのだ。

【ヘッドホンでモニターした録音】
 こうした違和感の多くは、聖堂での録音がスピーカーを通じてミックスバランスを練ったものではなく、ヘッドホンで確認していることとも関連性があるように思う。中世ヨーロッパ音楽の録音会場は、聖堂や古城といったロケーションが選ばれることもあって、編集用のモニタールームがないためヘッドホンでのモニターが主流である。これはドイツでテープ録音が始まった1940年代のラジオ中継からの伝統で、基本的にはノイズ検知がその目的である。一方、古楽器の演奏が盛んになった1980年前後には、楽器の音色や会場の響きを正確に再生できるスピーカーがなかったため、ヘッドホンでの試聴のほうが有利であったことが挙げられる。マイクは従来のノイマン社の大型コンデンサーマイクから、ショップスやB&Kのようなスレンダーな棒型マイクに代り、録音機材のリストにSTAXのイヤースピーカーを挙げる録音エンジニアもいた。
 現在では、録音モニターのヘッドホンにGRAD、HiFiMANなど様々な機種が使われるが、これは1995年にDiffuse Field Equalizationという名称で、外耳の共振を考慮した周波数特性の測定方法が国際規格IEC 60268-7として統一されたことと関係が深い。さらに重要なのはタイムコヒレント(時間的整合性)で、低域から高域の応答のタイミングと位相が揃っていることが挙げられる。よくスタジオ用として使われる密閉型ヘッドホンは低域の返しが強いので避けられ、スレンダーなオープン型が好まれる傾向にある。イヤーホンが使われないのは、個々人の外耳の癖が反映されやすいのと、会場の音との聞き比べがしにくいからだろう。


B&K社のダミーヘッド4128C HATSとDiffuse Field Equalization補正曲線(参照サイト


 やや神経質な議論になっているのは、デジタル技術によってレコード再生の癖が抑えられるようになったことと、コンピューターでの音響解析が導入されたことが挙げられる。デジタル時代になって、人間の聴覚のほうがずっと癖のあることが判った、というのが実際である。


【時間軸の秩序の回復】

 では、スピーカーでの再生はどうかというと、これがまたあまり芳しくない。残響音のなかでの定位感を出すには、高域に繊細な表情が必要だとされる。個人的にはこれは的を得ていると思っていて、リボンツイーターなどを聴くと何となく合点がいく。一方で、過度特性の優れたツイーターの反応スピードに付いてこれる低域~中域のユニットが少なく、ツイーターの音に釣られて神経質なものになりやすい。というのも、ツイーターの音響エネルギーはかなり小さいにも関わらず、反応が早いため低域~中域をマスキングして、演奏者の声の躍動感を埋もれさせる傾向があるからだ。中世音楽の録音で一般に感じられるダイナミック感の欠如は、スピーカーのもつ音響エネルギーのアンバランスから来ていると思われる。所詮、電気音響の癖が一番感じられる部分でもある。

 さらに一般的なマルチウェイ・スピーカーは、ネットワークのフィルター特性により、クロスオーバー周波数付近で位相が反転してねじれる。このことでツイーターのパルス波だけがクリアに出し、低域~中域はその後を付いてまわるようになり、基音から倍音に広がるという楽音の基本形が崩れる。ヘッドホンで明瞭に声のピントが合うのに、スピーカーでは霧の向こうに消える理由には、多くのスピーカーで出音の位相がねじれて、高域のキャラクターのみが強調されることが挙げられる。

左:一般的な2wayスピーカーのステップ応答、右:ヘッドホンのステップ応答

 実際にタイムコヒレントのうち位相の整合性を示すステップ応答について、綺麗なライトシェイプを画くスピーカーは非常に少ない。ひとつの解決方法は、ネットワークを通さないフルレンジを使用することだが、高域の指向性が狭くキャラクターが強い。これは人間の声の複雑なフォルマントを伝えるのが難しい。逆にネットワークに時間遅延を組み込んだスピーカーは、ステップ応答は確かに綺麗だが、反応の遅いところに合わせる傾向があって、音に推進力がないというか、全体にどっしり構えたような鳴り方のものが多い。これは人間の話すスピードでも不自然に感じるマイナス要因になる。


 私の場合は、ステレオ再生の違和感とずっと格闘してきたせいか、気まぐれでこういう課題に対処できていて、ギターアンプ用のフィックスドエッジスピーカーを後面解放箱に入れて、リボンツイーターを組合せ、マルチアンプで駆動することで、スピーカーの反応を犠牲にすることなくタイムコヒレントが揃うという結果になった。Jensen C12Rをベースにした私のシステムは、インパルス、ステップの各応答が非常にシャープで、時間的整合性(タイムコヒレント)という点ではトップクラスだ。30cmクラスのスピーカーなのに、実際に密閉型ヘッドホンより低音の反応スピードが速いと感じる。最初の頂点の小さな2山がリボンツイーターとJensenの反応の差で、Jensenは30cmという巨漢ながらリボンツイーターと同じくらいインパルス応答が鋭いユニットなのだ。ウーハーを後面解放箱に納めることで低音のリバウンドが少ないこと、チャンデバを使ってマルチアンプにしていることなどが功を奏している。



Jensen C12R+Fountek NeoCD2.0(斜め45度試聴位置)

 こうした音の反応の俊敏な特性は、このユニットが開発された1940年代のPA機器の特徴でもある。その目的は、スイング・ジャズが全盛だった時代に、ギターやボーカルを拡声するための補助機材としてであり、ビッグバンドの生音とガチンコ勝負していた。そこで出音が遅れることは、生楽器の音にマスキングされて埋もれることを意味し、出音のスピードがまず第一条件として設計されていた。古いローファイ機器であり、あざといほどに歪みも多い癖はあるが、アコースティックな楽器と同じようなポテンシャルが秘められている。



斜め45度(試聴位置)からの周波数特性

 システム全体の周波数特性はカマボコ型にみえるが、高域をフラットに整えると、かなりブライトな音調に感じるのは、リボンツイーターの反応とのバランスが自然に感じるボーダーラインだからだろうと思う。
あとライントランスを設けているのは、超高域に溜まっているデジタル録音特有のパルスノイズが苦手だからだ。AD変換時のパルスノイズは楽音に関係なく発生するので、全体にザワザワしているように感じたり、演奏と関係ない合図が乱発されたりと、CD再生で超高域まで伸びていることにメリットを感じない。


【モノラルこそ自然体】
 もうひとつの課題は、録音ごとに異なるロケーションの差をどう詰めるか? ということだが、私自身はスピーカーでこの手の正確な再現は、そもそも無理だという結論だ。ステレオという再生方法を取ることで、ステレオ装置そのものの音響的な癖のほうが大きく、ロケーションの向こうに居る演奏者の実像まで辿り着けないのである。あえていえば、ステレオ効果そのものが、演奏行為を聴くうえでジャマだと感じている。
 そこでマイクに収録された音の再現という原点に返れば、モノラル再生でも十分に対応できると悟った。モノラルにすることで、余計なロケーションの舞台セットを省略して、直接に演奏者のパフォーマンスを聴き取れる。つまりステレオ再生は、ロケーションの再生に大きな労力を割いている割には、その成果が出難いという欠点がある。
 1本のスピーカ-でのモノラル再生を、私はあえて点音源拡散音響(One Point Spreading Sound)と呼んでみようと思う。以下の図は、点音源の現実的な伝達のイメージである。モノラルからイメージする音は左のような感じだが、実際には右のような音の跳ね返りを伴っている。私たちはこの反響の音で、音源の遠近、場所の広さを無意識のうちに認識する。風船の割れる音で例えると、狭い場所で近くで鳴ると怖く、広い場所で遠くで鳴ると安全に感じる。


左;無響音室でのモノラル音源 右:部屋の響きを伴うモノラル音源


 こうした無意識に感じ取る音響の質は、左右のスピーカーの位相差だけではないことは明白である。つまり、音源はひとつでも両耳は位相差を捉えており、壁や天井の反響を勘定に入れた音響を基準にして、録音会場の音響の違いに明瞭な線引きが可能となる。この線引きが必要なのは、コンサート会場のように視覚的要素がない状態では、音の近さ広さというのが曖昧なためだ。おそらく録音しているエンジニアも時代や国柄によって基準がそれぞれ違うと思われる。例えばデッカとフィリップスのウィーン・フィルの音の違いなど、求める物や表現の手段としてステレオ感が存在するようになる。これが見たことも訪れたこともない場所の音となればどうだろうか。演奏そのものよりもロケーションの響きのほうに、ほとんど気を取られていることは明白である。


 一方で、モノラルで聴くことで、音場感が再現できないのではないか? という疑問もあるだろうが、むしろ現実のパースフェクティブから考えると、ほとんどの楽音は広い空間の中で点のように小さく、むしろ楽音の周辺を響きが覆っているように聞こえる。モノラルで聴くと、楽音と残響の時間軸が整理されて、楽音の後を追うように残響音が出ることが判り、ロケーションの響きを中心に聴くより、このほうがずっと自然なのだ。単純にはモノラル試聴のほうが楽音にピントが合いやすい。
 同じ原理で、楽器間の定位の再現はどうかというと、これも残響音とのバランスで遠近は容易に判断が付く。これは音量が大きい、小さいに関わらず、録音時のマイク位置によって不変の特徴として聞き取れる。現在のステレオの定位感の多くは高域のパルス波のタイミングの左右差に頼っているので、風切り音のような気配を必要以上に強調する傾向があり、これが残響音との時間軸のバランスを欠落させ、音量によって音像が膨らんだり縮んだりする。これは音量で低域~中域の明瞭さが変わり、残響音に埋もれたり、逆に飛び出したりするような錯覚を起こすのである。モノラルでタイムコヒレントを保証すれば、左右の差は単純な時間差だけで整理されるので、響きのなかに埋まることも飛び出すこともない。単純に遠いか、小さいか、という、録音当初からの違いだけが明瞭になり、このことによって演奏者同士のコミュニケーションを楽音として聞きとることに集中できる。このことは、音量のバランスとして高域が足らない、低域が足らないという議論から解放され、むしろ小さくても鳴らしてさえいれば、そこにある音として認識できることも示す。


 ここでモノラルで聴くことの特徴をまとめると、以下のようになる。

①楽音と残響音を、音場の広がりではなく、時間軸の違いでとらえなおす
②残響のなかでの音像の大小を、単純な音量の大小で整理する
③音響的なフラットではなく、時間軸の整合性で聴き取る


 ステレオ技術で養ってきた、音場感、定位感、フラット再生というものが、実は人工的な音響技術であり、そういう技術のできる以前に設計されたJensenの楽器用スピーカーから得られる情報は、スピーカーが生楽器と対峙した時代の名残をとどめている点で、とても興味深い結果となった。


【世俗曲も天に昇りつめる】
 多様化する宗教曲の録音に対し、世俗曲のほうはというと、古代からの響きを演出するにあたって、聖堂の響きを手本にしているものが多い。つまり貴族の館での晩餐、祝祭の賑わいなど、本当にあるべき姿は、すでに故人の記憶とともに墓のなかに眠っているのだろう。遠い過去の記憶を、霞のような残響の向こうから感じ取るというイメージは、オルフェオの冥府下りと一緒のようであり、現実の顔を見ようものなら、死の影が覆い尽くすのである。この約束事は、本来はゴシック・ホラーの得意分野であろうが、恐怖と失意に豹変する手前の、恋人の待つあの世への切符を手にしたときのワクワク感で留まっているのは幸いと言えよう。
 以下は個人的に気に入ってるCDで、時代考証などあまりこだわりなく聞いても、中世音楽の魅力を豊かに内包するものだ。

パリ学派の音楽(Les Escholiers de Paris)
 アンサンブル・ジル・バンジョワ
ドミニク・ヴェラール率いる中世音楽のパイオニア的存在で、旋法や音律について最初に取り組んだことで知られる。ここでは13世紀のパリ大学に集う知識人たちの音楽をスケッチしており、洗練された詩の世界が満喫できる。曲順に特に脈略はないように聞こえるが、1曲1曲のディティールにこだわったショウケースのようなもので、ここから展開できるものは実に豊かである。
騎士たちの歌(アルフォンソ十世のカンティガ集)
 パニアグア/ムジカ・アンティグア
「古代ギリシアの音楽」などで知られる古楽界の異端児、パニアグア導師の21世紀へのメッセージがこれだ。弟子のヴェラールとは全く違うアプローチで、中世音楽をアラブ=アンダルシア音楽の脈略で捉え直し、アラブのウード、北アフリカの打楽器など、異国情緒たっぷりに暴れまくるという次第。題材が騎士ということもあり、勢いあまってジブラルタル海峡を越えていたという言い訳も成り立つだろう。
SVSO IN ITALIA BELLA
 ラ・レヴェルディ
13~14世紀のミラノやパドヴァなど北イタリアのアルス・ノヴァからアルス・スブティリオルへ移行する時代の歌曲を集めたCDで、ダンテやペトラルカをはじめとするルネサンスの中心地だったことが十分に伺える洗練された雰囲気。8世紀に建造された修道院での豊かな残響で録られており、そもそも修道院の建築様式さえもがローマ文化の彼岸にあるのではないかと思える節もある。歌の最初に、古代ローマ時代から繁栄し15世紀にヴェネツィアに滅ぼされた都市アクイレイアの歌を選んでいるのも、ペトラルカらが感じた古代文明の残照と現在の追憶とが折り重なり、内容に深みを与えている。
チコーニア声楽作品全集
 ディアボルス・イン・ムジカ
チコーニアはフランドル出身のイタリア・トレチェント様式の最後の作曲家で、ちょうどデュファイの先輩格にあたる。この後にイギリスのフォーブルドン様式との融合によってルネサンス様式への結実していくのだが、複雑なイソリズムがフランドル絵画の目を積んだ織物のように聴こえる感覚は、絵画で言えばジオットからファン・デル・ウェイデンへ移行する時代の雰囲気がよく分かる。
アルフォンソ五世の治世(1396-1458)
 サヴァール/ラ・カペラ・レイアル・デ・カタルーニャ
アラゴン王ながらナポリ征服後は彼の地に留まり、盛期ルネサンスの文人たちを宮廷に集めた人物の音楽絵巻。2枚組のうち前半の1枚が宗教曲、後半の1枚がナポリ民謡も含めた世俗曲で分けられている。デュファイ、オケゲムなどの作品を、周囲の文化状況と上手く馴染ませて聴かせてくれるため、ルネサンス音楽の立ち位置が改めて判る仕組みになっている。個人的には、デュファイのモテットを典礼の文脈でちゃんとに聞けた最初のCDで、それまでの15世紀ポリフォニーへの苦手意識を払拭したものでもある。
VISION
 Richard Souther
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの音楽を、エレクトロニカ風にアレンジしたもの。やや番外編のような気もするが、中世の神秘主義とバイタリティについて、色々と説明しやすい作品に仕上がっていることも確か。リアルなベネディクト修道女が歌っているのも◎。
スザンヌ・ファン・ソルド写本(1599)
 レ・ウィッチェズ
やや時代が下っているが、オランダ商人の娘が所有していた16世紀の器楽曲集。元がヴァージナル曲なのを様々な楽器に移し替えて見事にアレンジして色彩感を与えることに成功している。ブリューゲルの風俗画が好きな人にとっては、中世と地続きだった時代の名残を感じることだろう。



 以上のCDを蒐集している関係で考えるのは、オーディオ機器の目的とは、室内の音響空間ではなく、時間の流れをデザインすることだ。それはどのような時間の流れに心身を委ねるかであり、中世音楽はさらに1000年単位の時間の波長を感じさせるアイテムとなろう。その意味では、時間は人間の寿命を遥かに超えて流れるものであり、かつ現在の実権に支配されるものでもない。あらゆる栄華は歴史の小さな断片に過ぎないという中世の思想は、あながち嘘でもないように思える。それは古代文明の精神的崩壊に直面し、その後に過酷な自然と共存する道を選んだ中世の人々の知恵ともなっているように思える。そうした知恵と触れ合う時間をもつことこそ、中世音楽がもたらすロケーションの本質であるような気がする。

 というわけで、音楽以外に自宅でも楽しめそうな中世関連アイテムを以下に羅列してみた。中世モノというと、とかく城塞、聖堂と、箱物に特化しがちなところを、人間性という側面で捉えてみた、と言いたいところだが、改めてみると発想に乏しく、まだまだ修行が足らないと思う次第。

たいようもつきも―フランチェスコのうた
 キャサリン・パターソン (著), パメラ・ドルトン (イラスト),
アッシジのフランチェスコの詩とともに、ボヘミア伝統の切り絵で表現した絵本。特に理屈もなく心に入ってくる。
ハーブ療法の母ヒルデガルトの家庭でできるドイツ自然療法
 森ウェンツェル明華 (著)
季節ごとに収穫されるハーブで癒しの効果を薦める本。日本だと漢方薬があるので、短期決戦の対症療法で処方される強い薬に悩まされる人に対し、長期治療の場合に用いられるが、欧米ではむしろ新たに見直されているのかもしれない。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの原著は、人知を超えた表現が多く取り付き難いので、こうしたスローライフ系の実践本が増える傾向があるように思う。
ジグソーパズル 1000ピース 「快楽の園」
 ユーログラフィックス
中世最後の謎解きともいえるヒエロニムス・ボスの大作を、改めて細部にわたりじっくり時間をかけて見つめるのに適したもの。
中世実在職業解説本 十三世紀のハローワーク
 グレゴリウス 山田 (著)
コミック系同人誌で連載していた挿絵と解説による見開き2ページの職業案内。霞を食ってるような業界ならではの共感があって楽しく読める。




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