我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「アセテート紳士録」は、初老を迎えてアセテート盤の面白さに目覚めた情況をモニターします。。。。の前に断って置きたいのは 1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です) 2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします) 3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます 4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます) という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。 |
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アセテート紳士録 |
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【実際は短い恋の予感】 アセテート盤とは1934年に米Presto社が開発したディスクレコーダーで、アルミ板に薄く塗りつけたアセテート樹脂をカッターレースで刻む方式で、33
1/3回転での長時間録音が可能なほか、従来のラッカー盤が温度を上げて柔らかくしてからカットしていたのに対し、常温(かなり冷えた場所でも)でカットでき、さらに回数は限られているがそのまま再生も可能という優れもので、英米の放送録音で1950年まで大活躍した。 【アセテート盤ではじまった全米ネット】 【実況から記録への進化】 米Presto社が1934年に発売したアセテート盤録音機は、1932年を前後して起こったスペック競争からすれば、実に控えめなスペックであるし、テープ録音が始まる以前の低規格品と思ってる人も少なくない。しかし今でいえばカセットテープやCDに匹敵するインパクトのある製品で、戦前のオーディオ史を語るうえで本来外せない代物だった。アセテート盤というと古い録音の代名詞のように思うかもしれないが、実際には1930年代末期から世界中のラジオ放送が国営化された頃から、戦後の1950年代中頃まで20年にも満たない短い時期に使われた。その間にスウィングジャズ、クルーン唱法、放送局専属オーケストラなど、様々な音楽がメディアのなかに飛び込んできて、国民的歌手などという言葉まで生まれた。一方で、ドイツでテープ録音機がHi-Fi対応になったのが1941年、戦中から戦後の非ナチス化裁判までの1950年くらいまでは、ドイツ国外にテープ録音機の普及は留められていたので、その合間を縫っての話だったことが判る。 1930年代から盛んになったラジオ局主催のライブ・ショウは、当時の法律もあって無料で視聴者を招待するものであった。トスカニーニ、グレン・ミラー・オーケストラ、ファッツ・ウォーラー、ビング・クロスビー、アンドリュース・シスターズなど綺羅星のラジオ・スターが活躍し、地方局への音源の配給のため番組ごと収録したアセテート盤が製作された。ラジオ・スターはいずれも既に名の売れたミュージシャンが多かったが、ビング・クロスビーがホワイトマン楽団から独立して以後、クルーン唱法に至ったのは1931年からはじまったCBSでのラジオ番組(ビング・クロスビー・ショウ)との関わりが強い。こうした状況もPresto社のレコーダーで記録されていた。 第二次世界大戦での戦場実況レポートの多くは小型化されたディスクレコーダーが使われ、潜水艦のソナー音の記録用にHi-Fi技術が一気に躍進した。実は天皇陛下の玉音放送もアセテート盤で行われていた。
Presto社のディスク・レコーダーは急速に広まり、発売後3年目の1937年には年間50万枚ものBlank Disc(録音用アセテート盤)が売れた。これはラジオ放送の普及とともに、アマチュアによるエアチェックの流行も寄与していたが、NBCという大御所でも十分使用に耐える完成度を当時からもっていたことを物語っている。Presto社のディスクレコーダーがマーケティングに長けていたのは以下の理由による。
1950年代のレコーディング・ルーム左:Reeves Sound Studio、右:SUN Records Studio こうした流れを達観してみても、Presto社の投げ掛けた録音技術のダウンサイズが、非常に広い範囲で文化的に広がっていることが判る。何よりもラジオという媒体がもっっていた情報の密度が、現在のそれとは比べものにならないほど、庶民の生活に影響を与えていた時代のことである。アセテート盤の放送音源の再生技術を抜きにしては、1930~50年代の音楽文化を語れないほど、奥の深いものであることを悟った次第である。 【AMラジオ局でのモニター環境】 戦前の放送業界に関する勝利者はRCA陣営であり、複雑な電気技術の民間へのダウンサイズを含め、ラジオ・ディズという懐かしい響きのもつ印象のほとんどは、RCAが1930~40年代に形造ったものである。RCAの録音再生技術は、基本的にフラット志向で高域を落としたもので、その後の東海岸のサウンド傾向(BOZAK、AR、BOSEなど)を引き継いでいる。その代わりに、録音側でピリッと辛めに仕上げるのが味付けの基本になる。トスカニーニの8Hスタジオの硬質な響きは、放送用の味付けをダイレクトに戦後のHi-Fi機器に持ち込んだことによる過誤と思われるし、1950年代のジャズ録音の多くも東海岸で収録されている。むしろアメリカ全土で聴かれるために、多少キャッチーな音造りをするのが放送業界の鉄則だし、リスナーに費用負担を掛けない点でも合理的である。これが戦後のアメリカン・サウンドの骨格ともなるのである。 そのRCAの音響技術を支えたオルソン氏の仕事のなかでユニークなのが、スピーカーに関する研究であろう。今となってはその影響をあまり感じないのだが、1930年代において音響学の仕組みを電気的模擬回路でシミュレーションする技術のパイオニアでもあった(例えば木下氏がTADを開発した頃に顧問を務めたLocanthi氏はよくメモでこの手のシミュレーションをしていたという)。戦後のリビング・ステレオ時代のLC-1Aモニタースピーカーが有名だが、それ以前に迷路型音響箱(ラビリンスと言われた)を使ったMI-4400モニタースピーカーをリリースして、これがラジオ局に広く導入された。1939年にリリースされたMI-4400は、高域の振動を制御するダブル・ボイスコイル(1934年発表)、低域の最低共振周波数を打ち消すバックロードホーン・キャビネット(1936年発表)、その他に高音用の拡散翼を設けるなど、多くの斬新なアイディアを投入した製品であった。このことにより8インチ径のシングルコーンで60Hz~10kHz(実験レベルでは12kHz)という、Hi-Fiの幕開けを告げるスペックを叩き出した。このモニタースピーカーは構造に懲りすぎたせいか、AltecやRCAから同軸2wayのモニターが発売された後は、メンテナンスされることなく1950年代にはほとんど姿を見なくなる。 以下の図で特に注目したいのは、1934年の論文でシングルコーンスピーカーの一般的な特性が比較されていることである。これは明らかにRice&Keloggのスピーカーの延長線上にあり、2~5kHzにピークをもたせたプレゼンス重視の特性である。これに対しMI-4400は完全にフラット再生を目指していたのだが、実際には高音が大人しい傾向のあることが判る。
英BBCで戦後まもなくドイツ製テープ録音機(マグネトフォン)の評価レポートをした時点では、敵国の技術をこき下ろしたい心理状態を差し引いたとしても、アセテート録音機のほうが良いとの結論を得ていた。ところがその直後に出現したLP時代の復刻盤は針音厳禁で、アセテート盤はその性格上プチノイズのクリーニングができず、ノイズ除去のため高域に深いイコライザーを掛けていた経緯がある。10kHzまで入った情報は5kHzでカットされていたのである。現在残されているほとんどのアセテート板は保存状態が悪く針音もザラザラだが、切りたてのアセテート盤は少しシュルシュルと音を立てる程度。さらに当時のテープ録音よりもダイナミックレンジが広く、少々のオーバーレンジでも歪みがそれほど目立たないため、たかがアセテート盤だからと侮れない。BBCのモニタースピーカーはGEC製のフルレンジだが、1.5~2.5kHzにピークをもち、その両端の300Hz以下と4kHz以上がラウンドする典型的なカマボコ型だが、戦後に世界各国のスピーカーとの聞き比べでは、アナウンスの声を自然に再生することで評価されていた。オーケストラの再生が良くても、金切り声を上げたり胸声でボソボソではNGで、これだけは譲れないことだったらしい。
戦前のBBC LSU/7型モニタースピーカーとアセテート録音機(1932年) このように考え方によっては、アセテート盤=安い低品質録音ではなく、アセテート盤こそが市場に流通したSP盤より実音に近いものである可能性もある。あとアセテート盤の功績を挙げるとすれば、33 1/3回転のLPレコードの普及に寄与したと思われる点である。当初使われた33 1/3回転はもともとトーキーのヴァイタフォンで使用していたものであったが、トーキーでは1928年以降に光学式録音方式が普及していたことから、Presto社が長時間録音用の規格として復帰させたとみてよい。つまり放送業界でデフォルト・スタンダードとなっていたこの方式が、次世代メディアの基盤となったと考えるのが妥当である。ちょうどFMステレオ放送とカセットデッキがステレオ機器の牽引役になったのと同じである。その意味でも、アセテート盤の正当な取扱いと再生技術こそが、SP盤とLP盤の深い峡谷を結ぶ架け橋なのである。
これだけの大物アーチストを集めて「体が資本」なんてプロレタリア労働者のように扱うのはどうかと思う人もいるかもしれないが、働き盛りで目がギラギラ光ってる年頃といえば納得していただけるだろうか。そしてそれぞれが歴史に残るパフォーマンスを繰り広げており、その現場に立ち会えた感動は何にも代えがたいものだ。そしてその体当たりのパフォーマンスを目の前で起きているように再現するのがオーディオ装置の役割なのだ。
【アセテート復刻盤を復興する理(ことわり)】 【アセテート盤の彷徨える霊を宿せしもの】
唇の動きに見とれるか、顔を眺めてうっとりするか…
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