20世紀的脱Hi-Fi音響論(番外編)


 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。「JBLが再びD130を作るとき」は、結婚と同時に手放したヴィンテージD130への思い出とともに、自らの音楽の嗜好の変化について自己分析する状況をモニターします。

JBLが再びD130を作るとき
【JBLが再起を賭けた魂の音】
【じゃじゃ馬D130の乗りこなし】
【この録音はD130で聴け】
【モノラルの音壁を全身で浴びろ】
冒険は続く
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。


JBLが再びD130を作るとき

【JBLが再起を賭けた魂の音】

JBLが再びD130を製造開始する。もちろんこれは嘘(フェイク)である。
おそらく、薄くて大きいストレート・コーン紙のプレス型から、アルミキャップの成型、さらには鋳物のフレームなど、ものすごくお金の掛かるものとなり、1本50万円というオーダーになるだろう。さすがのJBL様もそこまでして、かつてのレガシーにしがみつくことはないのである。

戦後に社長室でご機嫌なジムランさん、最初のD130の広告

しかし、その製造期間30年に渡るレガシーを眺めると、JBLの成り立ち、いやブランドの生命線ともいえる血脈が、はっきりと読み取れるのである。JBLのスピーカーにまつわるブランドイメージは、ほぼD130における個性的なサウンドに集約されていると言っても過言ではないのだ。

開発初期~Hi-Fi対応期
D130が開発されたのは1946年。JBLことジェームズ・バロウ・ランシング氏が、アルテックとの合弁会社で年季奉公した後に、新たに会社を設立した頃の最初の作品であった。その売りは「1mWで動作する」という高エネルギー変換率で、単に音圧が高いだけでなく、小さな音量でも機敏に反応する豊かな音楽性を備えていた。ただし時代は既にHi-Fiに移行しつつあり、D130はSP録音やAM放送の規格となるエクステンデッドレンジ(100~8,000Hz)に属するものであった。このため、D130単体で音楽を聴こうとすると、やや古臭い規格として見劣りしてしまうのである。
JBL D130の扱いの難しさは、昔日の製造技術の特殊性よりも、むしろその音響特性にあると言っていい。スペック上は40~8,000Hzというが、低音側は3kHz辺りから緩やかにロールオフし、高音は4kHzでストンと落ちてしまう。つまりカマボコ型どころか、フラットな部分の全くない、のぼ~と伸びた下顎と、頭が絶壁のように寸詰まりの、フランケンシュタインのような顔立ちとなる。これでは現代のオーディオ理論には全くそぐわないと判断されてしかるべきである。

初期のD130と後期の2135とのスペック比較
初期はプレーンバッフルで100Hz以下ダラ下がり
後期は40Hzまで伸びているが中低域が沈んでいる


やや誤解しているところを言うと、JBLがHi-Fi規格に乗り遅れていたわけではない。むしろ逆で、1937年にいち早くアイコニック・モニターシステムを開発し、放送業界でのHi-Fi化(ライブコンサートの生中継)に挑んだし、アルテックに吸収合併された後も1942年に同軸型スピーカー604Aを開発しており、このときはFM放送をにらんでいた。つまりジムランその人こそHi-Fiのパイオニアであったわけだが、D130を自身のブランドを再出発させるにあたり開発したのは、まさに音楽再生のコアとなる帯域で最上の物を提供しようと挑んだ結論であった。
そのJBLもD130と同時期に、Hi-Fi規格(50~15,000Hz)に対応する130Aウーハー、D175Hツイーターを開発していたが、LP盤自体も市場に出たばかりなうえ、コンシュマー向けの製品としては高価だったため、流通量は多くなかった。またWestrex社のアジア市場では、375ドライバーを用いたトーキーシステムも売り出されていたが、その存在さえ知らない人も多いだろう。創業者が1949年に他界したのち、D123ウーハー、075ツイーターなど、新機軸のユニットの投入と共に、かつてのシェラーホーン・システムを小型化したハーツフィールドを開発し、少しずつ風向きも変わってきたが、アルテックがランシング氏のVOTT(ヴォイス・オヴ・シアター)を冠したコンシュマー製品を送り出すのとは気風が異なっていた。この時期のユニットはジムランと呼ばれ、ヴィンテージ市場でも人気のあるものだったが、製造時期から半世紀を過ぎた頃から、1950年代に製造されたJBL製品を見つけるのはかなり難しくなっている。

1950年代はスピーカーをDIYで組み立てるのが当たり前だった

ステレオ期での撤退~ロックステージへの躍進
時代は移り1960年代に差し掛かると、ステレオ録音に対する対応が迫られる中、JBLはフラットな周波数特性に整えたLEシリーズを発売することになる。代表的なのはフルレンジLE8Tで、20cm単発からJBLらしい音圧の高い奔放なサウンドが弾き出されるのは、JBLブランドの新しい曲面であった。この頃はD123に白いダンピング塗料を施した123Aウーハーとなり、これは現在まで少しずつ仕様を変えながらも4312スピーカーに使用されている超ロングランユニットのひとつである。この頃のD130はフェンダー社のギターアンプ用となっており、D130Fの型番で製造されていた。つまりHi-Fi機器のカテゴリーからは一端はずれた形で製造が続けられていたのである。

赤いボディのD130F(1960年代)、仲良くギターアンプに座るB.B,KIng、Eric Clapton(1967)

もはやブレーク寸前だった1970年前後のJBLエクステンデッドレンジのキッチュな宣伝攻略

ところがこのD130が不死鳥のように蘇ったのは、1970年代のロックコンサートでの巨大PAのミッドロー帯域を受け持つようになってからである。時を同じくして、ディスコブームに沸いたときにも、D130はバックロードホーンの箱に収められて活躍した。この勢いはスタジオモニターの分野にも波及し、1960年代がほぼアルテック一色に染まっていた録音スタジオは、1970年代を通じてJBLへと入れ替わるようになった。ただし日本で人気のあった4343、4344のような大型モニターの使用例はそれほど多くなく、4320から4331のような中型ブックシェルフが主流であった。

グレイスフルデッドのWall of Soundシステム(1970年代)

1950年代のC435と1970年代のサンスイ製4530型バックロードホーンBOX

このため、D130はライブステージでの瞬発力が求められる場面で効果を発揮する一方で、スタジオモニターではトーキーに準じた落ち着いたトーンでパワーハンドリングが稼げるスピーカーシステムが供給された。これも戦前に開発されたアイコニック・モニターの延長線にあるのだ。やや誤解を受けやすいのだが、スタジオモニターとして活躍したアルテック604EとJBL 4320では、アルテック604Eのほうが攻撃的なサウンドであるのだが、アルテックはジャズのようなアコースティック楽器向け、JBLはロックのような電子楽器を伴った楽曲向けという印象が付きまとう。これは1950年代以降のトーキーで名を馳せたアルテックと、1970年代以降のロックステージで名を馳せたJBLとがもつ、ブランドイメージによる差であり、その意味ではD130のもつやんちゃ坊主なイメージのほうがJBLのブランドに直結しているのである。ただ忘れないでほしいのは、604Eも元はランシング氏の作品であり、全く別の血筋ではないことだ。こうした音楽ジャンルへの柔軟性は、むしろ音響機器としての機能性が確かなゆえに、楽曲の特徴をより的確に表現することができたというべきだろう。

1960年代は、ロックといえばアルテックのプレイバックシステムだった

新装したアビーロードで「狂気」編集中のアラン・パーソンズ(1972)
JBL 4320ステレオと中央にオーラトーン5cモノラル


しかし、肝心のD130のサウンドについては、1970年代から半世紀経った今では、おそらくほとんどの人が知らない、もしくは忘れてしまったと言っていいだろう。また、その使用方法についても、手に余ると考えている人も多そうだ。それはジムランの情熱、いや情念ともいえる燃える魂の音なのである。



【じゃじゃ馬D130の乗りこなし術】

さて、そのD130だが、以下のように、おおよそ5世代に分かれて製造されている。

背面 ロゴ エッジ マグネット
1946~52
フラットバック

ジムランのロゴ
フィックス アルニコ
1953~67
ハンマートーン

ロスアンジェルス工場
フィックス

ビスコロイド
アルニコ
1967~?
フェンダーD130F

フェンダー名義
ビスコロイド アルニコ
1971~78
2135プロPA仕様

布エッジ アルニコ
1979~?
E130(2135H)

布エッジ フェライト


これらをみて、概ねアルニコマグネットを背負っていたのがD130と言えるのだが、1960年代においては低音と耐入力の増強のためビスコロイドを塗布したフリーエッジになり、1970年代以降はさらなる耐入力が求められ布エッジになっている。このことは何を示すかと言うと、ジムランと呼べるものは超希少なフラットバックのみ、フィックスドエッジ特有の「乾いた低音」はビスコロイドを塗布していない1950年代まで、1960~70年代のフリーエッジ化はバスレフからバックロードホーンへと使用形態が変わることを意味している。アルニコだから良いとか、フィックスドエッジだから良いとか、単純な割り切りができないのは明白で、その時代に何が必要となり、その要請に応えるためスタイルを変えていく、JBLなりの処世術も見て取れるのだ。

C36/38型ブックシェルフ「BARON」
1951年のカタログから登場した最小規模のバスレフエンクロージャーは、もともと小口径20cmのD208のために開発されたものだが、価格やスペースファクターの関係からD130にも適用された。バロン(男爵)という、さも偉そうな名前が付けられたのは1966年。本当は横向きがBARON、縦置きがVISCOUNTとなるのだが、大概は呼びやすいバロンのほうで親しまれている。ヴィンテージのJBLを最初に購入する際に、誰もが一度はこの男爵殿を部屋に招き入れるかを思案する仕様となっている。一方で同じ38cm径でも130Aについては、より大容積の箱を推奨していたので、エクステンデッドレンジであるD130なら許せる絶妙な組合せと言える。


BARON型エンクロージャーに入れたD130は、075ツイーターと組み合わせることの多いことも重なり、かなりパツンと小股の切れあがった軽妙かつ明るいサウンドとなる。それでいて150Hz付近までのミッドローの音圧がダイレクトに出てくるので、小型フルレンジとはまた違う迫力ある音楽性で迫ってくる。
一方で、何でも前向きに捉えて直進する性格は、それに合う音楽にも影響があり、ポップスやロック、あるいはブルースに辛目のテイストを加えるのに向いている。これはエクステンデッドレンジがボーカルやエレキギターの拡声装置として有能なためである。逆にジャズであまり人気が出ないのは、テナーサックスのブロウ感が浅いとか、トランペットの耳をつんざく音が癖が出やすいなど、低音側や高音側で音のつながりに難があるということによる。
ちなみに175DLHとの1200Hzクロスでの組合せは、075よりもニュートラルなサウンドとなり、むしろモダンジャズやポピュラーソングといったミッドセンチュリーのテイストは、こちらのほうが合っているだろう。さらにポップス寄りにするならD123の緩く太い低音のほうが合っており、1970年代のL101ランサーのバランスの良さを知る人なら即座に同意するだろう。JBLにも、チャレンジャーとして歩んだ時期と、成熟したジャンルに同期していた時期があり、どちらかというと後者のほうが売れたし、誰もが満足するオーディオシステムに仕立てやすい。危ういバランスに立っているD130を主軸にした組合せは、使い手の嗜好をかなり選ぶように思う。
アンプの組合せは、反応が機敏なためそれほど選ばないが、個人的には大出力のアンプよりも、真空管なら6V6や6BQ5のプッシュプル、トランジスターなら100W未満のものが合ってそうな気がする。そのココロは、低音が引きずることなく、中高域の艶がしっかり乗るからだ。

C35/37型バスレフ「FAIRFIELD/ROHDES」
最初期のD1000とほぼ同じ大きさで1952年から登場した、C36/38より一回り大きなバスレフ型エンクロージャー。1967年から縦置きC35をFAIRFIELD、横置きC37をROHDESと呼ぶようになった。個人的にはこの大きさのエンクロージャーがD130の本来のサウンドだと思っていて、ゆったりしたオールド・アメリカンな風情がありながら、突っ込むときはバリバリ突き進むという、ややアウトビートに似た間合いの絶妙さを保っていると思う。自分がD130を持っていたときも、箱はアルテックだったが、C37とほぼ同じ容積のものだった。一方で、D130ならではの攻撃的なサウンドを目指す人が多いため、同じ大きさならハークネスのほうに傾く事が多く、この仕様でのバスレフ箱に出会うことはほとんどない。

C40型バックロードホーン「HARKNESS」
1957年から登場した、後述するC435(C43)よりも少し小振りなエンクロージャーで、岩崎千明氏がジャズ喫茶を始めた頃に使っていたのと、日本の家屋にも入れやすい大きさである。このためジャズ愛好家でヴィンテージJBLを検討するときに、まずここをスタート地点と考える人も多い。当時のオリジナルの組合せはD130+075だが、岩崎氏いわく低音の量感がある分だけバランスが取りにくく、175DLHからさらにLE85(2420)のほうが好ましいということから、スピーカーのグレードアップにも対応しやすいものとなっている。


C45型ステレオスピーカー「METREGON」
意外なのがステレオ初期の1958年に発売されたメトロゴンで、概ねパラゴンの弟分のように言われているため、275ドライバーを選択して150-4CやLE15Aを押し込んでいるのが実情だが、実は両袖の格子の奥にC36バロンとほぼ同じ大きさのバスレフ仕様のバッフルがあるだけで、真ん中のラウンド部分は半分が空っぽで反響版のような扱いである。広告ではD130からスタートでき、高域を足すことでグレードアップできるとある。そのすぐ後で275ドライバーとメトロゴンに合わせて設計されたH5040カーブドホーンを宣伝しているが、おそらく言葉の綾だろう。カタログでは075ツイーター推奨、175のホーンをH5040にしても納品可能ということなので、そちらのほうがバランスが良いように思う。


4520/4530バックロードホーン
古くはC550/C435型エンクロージャーとして1955年から登場したが、当初はシアター向けに低音を増強するために開発された。ホーンロードはC550が42Hz、C435が60Hzまで再生し、150Hzからはスピーカーから直接発せられるのは共通である。D130+075との組合せが推奨されたのは1956年からだが、その後1971年からはロックステージでの頑丈な(そしてかなり重たい)仕様となる4520/4530となったが、この箱も当初は2205ウーハーと2420ドライバーに大きなホーンレンズ2395/2390を載せたものが企画された。おそらくD130/2135が実装されたのは日本での仕様で、それは単純に1960年代のPA用としてC550/C435がJBLのカタログに掲載されていたからに他ならない。このため、D130と4530の組合せは、ディスコのPAに欠かせない黄金の組合せとなり、国内産の同形状のエンクロージャーも多数発見されている。



バックロードホーンに入れたD130は、低音の増強というよりは、150Hz以上のミッドロー帯域がみっちり出る音の壁に特徴があり、6~8畳間に留まる普通の家屋では持て余すだろうと思う。もうひとつは1960年代と1970年代のユニットの違いで、ビスコロイドを塗布したエッジと布エッジでは低音の締まりが異なり、おおむね持て余すのは布エッジになった2135を入れた4530である。布エッジになり機械抵抗が少なくなったから、小音量での反応も良くなっているはずだと思うのは早計で、むしろ硬いフィックスドエッジのほうが叩けば跳ね返ってくるような、JBLらしい素早い反応になる。一方で、部屋の容積に余裕がある場合は、大音量でフルスイングするガッツリしたサウンドが堪能できるだろう。この場合、高域は075なんて小さなツイーターで済まさず、275/2420ドライバーに託すべきだが、1200Hzで切るなら他のウーハーでも同じだろうと思うのも早計で、D130の中低域のハツラツとした鳴りっぷりに触れると、そもそも持って生まれたものが違うことに気付くことだろう。
アンプは高能率だからと3極管シングルで鳴らそうなんてことは思い止まり、真空管なら30W級以上のプッシュプル、トランジスターなら200W級アンプを入れると、ミュージシャンの躍動感に直に触れることができるだろう。ただし、その音量に見合う広い部屋をオーディオに充てられるときに改めて効力を発するのである。

4560フロントロードホーン
実はD130/2135が1970年代のロックステージに君臨したのは、このフロントロードホーンでの仕様で、ともかくミッドローの音圧を上げるために設計されていながら、バスレフとして低音も出るというイイトコ取りのような感じだが、印象としてはバックロードホーンよりも大人しく感じる。大きな理由はフロントロードの指向性が明確に狭められることで、D130の奔放な鳴りっぷりに足枷が掛けられているように感じることと、大概はスピーカーを足元に見降ろすように配置するため、天井の低い窮屈な音に成りがちなのだと思う。さすがにこれは075ツイーターとの組合せよりも先に2420ドライバーに目先が移るが、個人的には、D130が目線に合うぐらい高い位置に据える、さらにスピーカーと試聴位置の角度が15°以内に納まるようにほぼ真正面で聴く、などのことが必要なように思う。エンクロージャーの設計がステージの上に山積みにできるようになっているからだ。



D130に魅了されたオーディオ評論家
意外に思うかもしれないが、D130はそのレガシーが大きい割には、日本以外の国ではそれほど大切に扱われていない。どう言ったらいいのだろうか、ミッドセンチュリーの範疇のなかでさえも該当しそうにないのだ。同じことはLE8Tについても言えて、1960年代のJBLが日本のオーディオ史にとって特別な存在だったことは間違いない。

まず挙げなければならないのは、岩崎千明氏が1974年にしたためた「俺とJBLの物語」だ。Hi-Fiレコードを聴き始めた頃のD130との衝撃的な出会いからはじまり、ジャズ喫茶からオーディオ評論家になるまで苦節を共にしたD130との愛と戦いの日々である。そのなかで興味深いのは、米軍居留地からD130を1本だけ譲ってもらってから、他のユニットでは代用できずステレオ化に着手するのがかなり遅れたことや、1960年代半ばに先輩ギタリストに愛機を奪われて以降、同じものが二度と手に入らなくなったこと、そしてJBLのサウンドポリシーが1950年代と1970年代では全く異なってしまったことなど、D130のたどった歴史的転換が岩崎氏の心の放浪と重なり合って印象深く感じる文章だ。

ビギナー向けに20cmツイン・バックロードホーンに奮闘する岩崎千明氏

意外に思うのが菅野沖彦氏で、自身は375ドライバーと蜂の巣ホーンを愛用しており、クラシックでも上品に鳴らせるシステムを構築していた。そのためD130はそれほど推しではないと思っていたのだが、1977年のミュージックライフ別冊で、ロック向けのスピーカーとして4530相当のバックロードホーンにD130単発を入れたシステムを推奨している。ツイーターが付かないのは、セットで40万円という予算の関係からで、それよりも何よりも、ロックのもつフィジカルな熱情を身近に感じられることが、表面的ではないロックの極みを知る一番の近道だと直感的に知っていたからだと思う。アンプは大音量を前提にアキュフェーズE-202を屠っている。しかし、後にも先にも菅野氏がロックについて語ったのはこれが一度切りだったように思う。ちなみにセットで20万円というカテゴリーで、D130のユニットだけ買って平面バッフルに付けろと、修行僧のようなことを言ったのは岩崎氏である。個人的にはこれはこれでアリである。



【この録音はD130で聴け】


ヴィンテージJBLを話題にするとき、ほとんどの人が1950年代の創成期か1970年代のスタジオモニターのことを取り上げる。それがJBLというブランドの成長期を語るのに便利だからだ。しかしD130の目線で同時代の音楽を見ていくと、むしろエンタメ産業として成熟するのに先行する時代のほうが正しく語っているような気がするのだ。つまり、音響機器として真面目に造り込まれたリプロデューサーであるD130は、次世代のフロンティア(開拓者)としてミュージックシーンを盛り立ててきたのだ。なので使い古された録音を、今に生まれたての音楽のように新鮮な状態で届けてくれる点で、D130の右に出るスピーカーはそれほど多くないと言っていいだろう。
このため1950年代のモダンジャズ、1970年代のロックをすっぽかして、次世代の音楽の未開拓地に旅立った人々の演奏について語ると、意外な穴場をみつけることになる。実は1970年代はJBLのスタジオモニターが全盛期だったわけだが、それは一方でマルチトラック収録でのサウンドバランスを整えるための道具でもあった。実際の事件はライブ会場で起きていたわけで、そのアウトサイダー的な魅力はD130を主軸にしたシステムのほうが熱く語ってくれることだろう。電子楽器との相性も良かった点は、21世紀になってデジタル化された録音スタジオでも、アコースティックな骨格を保っていられることが得難い魅力ともなっている。

D130開発時:Hi-Fi初期のマイルストーン
SP盤の復刻盤というと針音がバチバチ鳴るのを嫌って、高域をフィルターで斬ったボンヤリした音と思うだろうが、実際は戦前でもラジオで流行した生中継ライブコンサートでHi-Fi再生が存在していた。ランシングのアイコニック・モニターは、まず放送業界の研究施設に導入された。その名残というべきか、21世紀に入って1930~40年代のSP盤による良質なリマスター盤が手に入るようになったのは喜ばしい限りだ。リリースがCDであるため、見逃しているベテランユーザーも多いだろうが、食わず嫌いはもったいない。
シナトラ・ウィズ・ドーシー/初期ヒットソング集(1940~42)

「マイウェイおじさん」として壮年期にポップス・スタンダードの代名詞となったフランク・シナトラが、若かりし頃にトミー・ドーシー楽団と共演した戦中かのSP盤を集成したもので、RCAがソニー(旧コロンビア)と同じ釜の飯を喰うようになってシナジー効果のでた復刻品質を誇る。娘のナンシー・シナトラが序文を寄せているように、特別なエフェクトやオーバーダブを施さず「まるでライブ演奏を聴くように」当時鳴っていた音そのままに復活したと大絶賛である。有名な歌手だけに状態の良いオリジナルSP盤を集めるなど個人ではほぼ不可能だが、こうして満を持して世に出たのは食わず嫌いも良いところだろう。しかしシナトラの何でもない歌い出しでも放つ色気のすごさは、女学生のアイドルという異名をもった若いこの時期だけのものである。個人的には1980年代のデヴィッド・ボウイに似ていなくもないと思うが、時代の差があっても変わらぬ男の色香を存分に放つ。
ジャイヴをもっとシリたいか?/キャブ・キャロウェイ(1940~47)
(Are you HEP to the JIVE?)

映画「ブルース・ブラザーズ」で健在ぶりをみせたキャブ・キャロウェイをどういうジャンルに含めればいいかを正確に言い当てることは難しいだろう。ジャズだというとエリントン楽団をコットン・クラブから追い出したと疎まれるし、R&Bというにはビッグバンド中心で大げさすぎる、Hip-Hopのルーツといえば内容が軽すぎる、いわゆるジャンピング・ブルースというジャンルも他に例が少ないので、そういう言い回しがあったんだと思うくらい。でもそんな検証は実に無駄だし、ラジオから流れる陽気な調べは、放送禁止用語を軽々と飛び越えキャロウェイが連発する黒人スラング辞典まで生まれるような現象まで生み出した。そういう俗っぽさからブルースが心を鷲掴みにするまでそれほど時間はかからなかっただろう。
ロジンスキ/クリーヴランド管 コロンビア録音集(1939-42)

LP規格の開発元だった米コロンビアだが、最初のLPはテープによるHi-Fi録音ではなく、SP盤のために製作された録音をLP盤にしたものだった。コロンビアレコードがソニー傘下にはいって、一番幸福だと思えるのが古い録音のデジタル・アーカイヴである。詳細は分からないが金属原盤から復刻したと思わしき鮮明な音で、本当に1940年代初頭の録音なのかと思うほどである。しかしLPでもあまり出回らなかったマイナーなアーチストを丁寧に掘り起こし、文字だけなら数行で終わるようなクリーヴランド管の原点ともいうべき事件に出会ったかのような驚きがある。録音として最も良いのはシェヘラザードだが、個人的に目当てだったのは初演者クラスナーとのベルクVn協奏曲で、英BBCでのウェーベルンとの共演では判りづらかったディテールが、最良のかたちで蘇ったというべきだ。
美空ひばり 船村徹の世界を唄う1(1956~64)

初期のものはSP盤でのリリースだが、大事にテープを保存していたのだと感心するし、なによりも二十歳前後の美空ひばりの若い色香の漂う声が新鮮である。マドロス歌謡が中心なのだが、おそらく帰還兵との関係もあって、この主題が頻繁に取り上げられたのだろうが、なんとなくハワイ、ブラジル移民とも重なり、裏声を多用したハワイアンの影響ともとれるのだ。この裏声を自由に操る七色の声が、美空ひばりの真骨頂ともなった。これはその修行時代から「哀愁波止場」での完成にいたるまでの記録でもある。途中の1959年に東京タワーをあしらった歌が入るが、これが第10回コロムビア全国歌謡コンクールの課題曲。このコンクールは過去に、コロンビア・ローズ、島倉千代子などを輩出してる。
ブルービート/スカの誕生(1959-60)

大英帝国から独立直前のジャマイカで流行ったスカの専門レーベル、ブルービート・レコードの初期シングルの復刻盤である。実はモッズ達の間では、このスカのレコードが一番ナウいもので、ピーター・バラカン氏が隣のきれいなお姉さんがスカのレコードをよく聞いていたことを懐述している。ノッティングヒルに多かったジャマイカ移民は、このレーベルと同時期からカーニバルを始めたのだが、ジャマイカ人をねらった人種暴動があったりして、1968年に至るまで公式の行事としては認可されない状態が続いていた。それまでのイギリスにおけるラヴ&ピースの思想は、個人的にはジャマイカ人から学んだのではないかと思える。ともかくリズムのノリが全てだが、それが単調に聞こえたときは、自分のオーディオ装置がどこか間違っていると考えなければならない。
様々な音楽ジャンルに挑んだ1960年代
1960年代というとロックを代表するカウンターカルチャーに話題が傾きがちだが、ステレオ盤の販路が広がるにしたがいエコーに包まれたお花畑サウンドが増えていった。実際にはPAシステムのほとんどは旧規格のものが使われており、レコードで聴いたほうが音質が良いという定説もよく聞かれた。このためこの時代の熱情を肌で感じるオーディオは、一昔前のものを希求することになるが、D130は次の1970年代に花咲いたように、その血筋を備えていたのである。
ハウリン・ウルフ(1962)

モダン・ブルースで異彩を放つチェス・レコードでのデビュー盤で、枯れ切ったダミ声で歌うブルースは、まさにシカゴの喧騒をつんざくように響く。この荒れた感じを包み隠さずに表現しうるのが、D130のようなヴィンテージJBLの本来の味わいである。いや味わいというような呑気なものではなく、噛みつかれそうな勢いで声が迫ってくるというほうが正しいだろう。これがオーディオ的に優秀録音である理由はJBLだけが知っているといえる。
フランス・ギャル(1964)

男気に溢れるJBLの好きな人には、やや意に沿わないかもしれないが、フランスのイエイエというダンス・チューンは、もともとゴーゴーの意味で、言わずもがなJBLはディスコにも強い相性を示すわけで、これを見逃すわけにはいかない。
このフランス・ギャルのデビュー盤も、ユーロビジョンで優勝した凱旋録音で、やや舌足らずな少女の面影を残す歌い口は、フレンチ・ポップスの定番となったばかりか、日本のアイドル路線のお手本ともなった。一方で、ちゃんとしたモノラル・スピーカーで聴いたことのない人にとっては、ただの太鼓持ちにみえるバックバンドのキレキレの演奏に気付きにくいことだろう。大所帯に見えながら奥の奥まで澄み切ったリズム運びは、このアルバムのピュアな感覚をいつまでも保っているのだ。
ジェームズ・ブラウン/SAY IT LIVE & LOUD(1968)

録音されて半世紀後になってリリースされたダラスでのライブで、まだケネディ大統領とキング牧師の暗殺の記憶も生々しいなかで、観衆に「黒いのを誇れ」と叫ばせるのは凄い力だと思う。ともかく1960年代で最大のエンターテイナーと言われたのがジェームズ・ブラウン当人である。そのステージの凄さは全く敬服するほかない。単なるボーカリストというよりは、バンドを盛り上げる仕切り方ひとつからして恐ろしい統率力で、あまりに厳しかったので賃金面での不満を切っ掛けにメンバーがストライキをおこし、逆ギレしたJBが全員クビにして振り出しに戻したという伝説のバンドでもある。長らくリリースされなかった理由は、おそらくこの時期のパフォーマンスが頂点だったということを、周囲からアレコレ詮索されたくなかったからかもしれない。ステージ中頃でのダブル・ドラムとベースのファンキーな殴打はまさしくベストパフォーマンスに数えられるだろう。
フィルモア・イーストの奇蹟/アル・クーパー&マイク・ブルームフィールド(1968)

ロックのライブ録音というと、ややアクシデント的な話題が先行して、なかなか演奏の中身まで行き着かない。それも一期一会のステージパフォーマンスとなれば、なおの事である。この録音は、そうした奇遇が重なって成り立っている1960年代終盤の記録である。
ブルース・ギターの名手マイク・ブルームフィールドとキーボディストのアル・クーパーは、ボブ・ディランのハイウェイ61で共演して以来の仲良しで、結局ディランがザ・バンドに切り替えた後に、「スーパー・セッション」と題したインスト中心の即興演奏ステージを展開していた。基本的にブルース・ロックの古典ともいえるような構成なので、オリジナル曲を掲げたクリームや派出なパフォーマンスのジミヘンのような脚光は浴びなかったし、同じメンツでも当時としては西部での公演がリリースされたので、こちらは2009年になって発売された発掘音源である。
この録音で何をチェックしているかというと、冒頭のアル・クーパーのMC部分で、胸声が被らずにクリアにしゃべれているか、それでいてインスト部分がスカキンにならず、ブルースのこってりしたタメが出きっているか、など色々とある。
1970~1980年代の異形のポップスター
ここではエンタメの王道を行くのを一端逸れて、二度と現れない個性あふれるタレントを拾い上げてみた。こうした演奏は、ちょっとした機敏に触れるとリアリティが増すが、D130は見掛け倒しの分解能などお構いなしに、楽音を前に前に進ませていく。そうしたボディごと体当たりしてくるフィジカルな体感は、Hi-Fiの創成期から大事にされてきたものである。
乙女の儚夢(ロマン)/あがた森魚(1972)

四畳半フォークもここまで化けると、むしろアッパレというほかない。冒頭から白昼夢にうなされたオヤジが、猫なで声で大正時代の女子高生への憧れと昭和の零落する品性を歌うなんて、高音質という役割がほとんど意味をなしていないことは一目瞭然。林静一氏のマンガに影響を受けたというが、全然上品にならないエロチシズムは、どちらかというと、つげ義春氏のほうが近いのではないか。音楽的にはフォークというよりは、アングラ劇団のサントラのようでもあるし、かといって明確なシナリオがあるわけでもない。しかし、結果として1970年代の日本で孤高のコンセプトアルバムになっているのだから、全く恐れ入るばかりである。
ジュディ・シル:BBC Recordings(1972-73)

コカイン中毒で亡くなったという異形のゴスペルシンガー、ジュディ・シルの弾き語りスタジオライブ。イギリスに移住した時期のもので、時折ダジャレを噛ますのだが聞きに来た観衆の反応がイマイチで、それだけに歌に込めた感情移入が半端でない。正規アルバムがオケをバックに厚化粧な造りなのに対し、こちらはシンプルな弾き語りで、むしろシルの繊細な声使いがクローズアップされ、それだけで完成された世界を感じさせる。当時のイギリスは、ハード・ロック、サイケ、プログレなど新しい楽曲が次々に出たが、そういうものに疲れた人々を癒す方向も模索されていた。21世紀に入って、その良さが再認識されたと言っていいだろう。
カントリー・ブルースのヨーデル節を独自に発展させた歌い口もかなり個性的だが、聴きどころは、ブルース感あふれたピアノの弾きっぷりである。実は伴奏者としても一流だったが、それを自分の信じる歌のためだけに使っている贅沢さが、ラジオ局の一角で行われたライブ中継を特別な空気で満たしている。
放射能/クラフトワーク(1975)

舞台で四角いシンセサイザーの前にロボットとなって立つネクタイ姿の男たち、という特異なパフォーマンスで一世を風靡した電子音楽のパイオニアのような存在だが、日本では必ずしも熱狂的に迎えられたわけではなかったように思う。というのも、ユリゲラーやブルースリーに熱狂していた当時の日本において、感情を殺したテクノポップスは夢物語では片づけられない、四角い満員電車で追体験するただの正夢だったのだと思う。標題のRadio-Activityというのは、古いドイツ製真空管ラジオを模したジャケデザインにもあるように、レトロなテクノロジーと化したラジオ放送を活性化する物質とも解せるが、原子力が一種の錬金術として機能した時代が過ぎ去りつつある現在において、二重の意味でレトロフューチャー化している状況をどう読み取るか、その表裏の意味の薄い境目にディスクが埋まっているようにみえる。例えば、放射能と電子を掛け合わせたものは原子力発電による核の平和利用なのだが、そのエレクトリック技術に全面的に依存した音楽を進行させたのち、終曲のOHM Sweet OHM(埴生の宿のパロディ)に辿り着いたとき、電子データ化された人間の魂の浄化を語っているようにも見えるが、楽観的なテーマ設定が何とも不気味でもあるのだ。おそらくナチスが政治的利用のためにドイツ国民の全世帯に配った国民ラジオのデザインと符合するだろう。よくコンピューター音楽と間違われるが、純然たるアナログシンセによるパフォーマンスで、この音色がなかなか再現しにくい厄介者であるが、ひとたびコツを掴むと固有のビビッドな感覚がよみがえってくる。
ヴィソーツキイ:大地の歌(1977)

酒の飲みすぎで潰したようなダミ声で機関銃のように言葉をがなりたてる旧ソ連の国民的シンガーソングライター。日本ではウィスキーのCMにも起用されたが、それ以前はほとんど知られることがなかった。共産主義国でのブルースということ自体がマイナーなうえ、政府批判とも取れる歌詞のゆえ当然のように発禁となったが、市民はこっそりカセットにコピーして聴いていたという。この録音はフランスでのセッションだが、実質的に残された最良の録音ということになろう。
沢田研二「A面コレクション」(1971~86)

ソロ活動開始の1970年代からヒットメーカーだった1980年代のポリドール時代のシングル盤を集めたベスト盤だが、ここでは2~3枚目の「勝手にしやがれ」から「AMAPOLA」が1980年前後に注目しよう。ジュリーの声は低い声でもセクシーなハイトーンの艶が載る七色系の声色の持ち主だが、そこにロック魂を注ぐべく専属バンドを定めてキッチリとレコーディングをする人でもあった。
歌番組では、アイドル全盛期を横目で睨みつけたファッション・リーダーとしても才能をみせたジュリーだが、当時アラサーだったのに今でいうアラフォーの色気たっぷりの魅力で押していたことが判る。そのダンディさからデヴィッド・ボウイに喩えるアジアのファン層もいるようだが、むしろプロモーション方法はマイケル・ジャクソンと同じベガス風のものだった。そのデジャヴなレトロ感を生かした味わいが、D130なら引き出せるのだ。
矢野顕子:ただいま(1981)

もともと即興的なピアノの名手で4人目のYMOのように参加していた頃、硬派なテクノを子供も楽しめるポップスの本流に読み直した点で今でも十分に新鮮な味わいをもつ。最初のアルバム「ジャパニーズ・ガール」から独自の世界観をもっていたが、前作がフルパワーでテクノポップにフィジカルにぶつかった力作だったのに対し、半年後に出したこのアルバムは何か置き忘れてきた記憶の断片を掻き集めた感じで、むしろアットホームな彼女の魅力が引き出されている。ともかく にゃんにゃん わんわん で音楽ができてしまうのだから、もはや怖いものなしである。実験的な無調音楽も含まれており、CMヒット曲「春先小紅」を期待して買った人は、いつ聞けるのかとドギマギして聴いていたかもしれない。
フューチャー・ショック/ハービー・ハンコック(1983)

意外に思うかもしれないが、本作のような電子音楽とD130の相性は結構キマッテいる。それもそのはずで、そもそも電子楽器はエレキギターやハモンドオルガンのようなものから始まり、その血脈のなかにD130も加わってきた歴史があるからだ。それと本作がヒップホップのテイストを取り入れたと言いながら、大衆に受け容れられやすいダンサブルな要素が満載だからこそヒットしたということも、1970年代のディスコブームに乗っかったJBLの得意分野なのだ。そこがこの曖昧なカテゴライズのなかでフワフワしている、このアルバムの立ち位置を明らかにしていると言えよう。
無国籍な放浪を続ける21世紀のポップス
ヴィンテージJBLといえば、昔ながらのモダンジャズが筆頭に上がり、さらにロックでも1960年代後半から1980年代前半の、ややレガシーに浸り気味なところがあるが、けして新しい録音と相性が悪いわけではない。むしろフィジカルな肉感をもつミュージシャンの実体感を再現してくれる、リプロデューサーとしての本質を外さない造りの良さが際立ってくる。
スタンダーズ/トータス(2001)

シカゴ音響派と言われた1990年代アメリカのインスト音楽のひとこま。とはいえ、今どきだと全て打ち込みでもっと複雑なものをやってしまいそうなところだが、そこは生演奏可能なフィジカルな範囲で留まりつつ、クールな情念を注ぎ込むよう心を配っている。ここでのスタンダード=ポップスの定義は、ジョージ・シーガルの彫像作品をポップアートと呼ぶくらい意味のないもののように感じる。トータスを知ったのはベスト・ヒット・USAで、小林克也さんがクールなMTVの新しい潮流のようなことで紹介していた。MTVも成熟してテレビ用プロモーションの焼き直しになりつつあった時代に、何かしらアートなものを捜した結果だろうが、こんなこと覚えている自分も何なんだろうと思う。
MAISON MARAVILHA/ジョー・バルビエリ(2008)

国内レコード会社のオーマガトキというレーベルのリリースするアルバムは、マニアックなものが多いように思うが、コアな音楽ファンを焚きつけてやまない。個人的には旧ソ連のダミ声シンガーのウラディミール・ヴィソツキーの1970年代フランス吹き込み盤で知ったのだが、イタリアの遅咲き男性シンガー・ソングライターの本アルバムも気付いてみればオーマガトキ。ボサノヴァとイタリア映画を組み合わせたような不思議な語り口は、上質なカフェ音楽でもある。どこかで聴き覚えあると思うと、あがた森魚「乙女の儚夢(ろまん)」と似ていなくもない。男のセンチメンタルといえば、行き場もない路地裏で犬も喰わぬ悶々とした感じだが、変態を略してエッチというなら、両者は人間の声のひとつの魅力というべきだろうか。あらためて聞き比べると、どちらも何でも鑑定団で本人評価額を大きく超えたプレミアムな判定と相成るわけだ。男のセンチメンタルはけして安くはないのだ。
ガイガーカウンターカルチャー/ アーバンギャルド(2012)

時代は世紀末である。ノストラダムスの大予言も何もないまま10年経っちゃったし、その後どうしろということもなく前世紀的な価値観が市場を独占。夢を売るエンタメ商売も楽ではない。
この手のアーチストでライバルはアイドルと正直に言える人も希少なのだが、別のアングラな部分は東京事変のような巨大な重圧に負けないアイデンティティの形成が大きな課題として残っている。その板挟みのなかで吐き出された言葉はほぼ全てがテンプレート。それで前世紀にお別れを告げようと言うのだから実にアッパレである。2人のボーカルに注目しがちだが、楽曲アレンジの手堅さがテンプレ感を一層磨きを上げている。
それと相反する言葉の並び替えで、敵対するステークホルダー(利害関係者)を同じ部屋のなかに閉じ込めて、一緒に食事でもするように仕向けるイタズラな仕掛けがほぼ全編を覆ってることも特徴でもある。それがネット社会という狭隘な噂話で作り出された世界観と向き合って、嘘も本当もあなた次第という責任を正しく主張するように筋を通している。個人的には情報設計の鏡というべき内容だと思っている。
それからさらに10年後、2020東京オリンピックで空中分解した1990年代のサブカル・ヒーローとヒロインの宴を肴にして聴くと、役所もテンプレという壮大なフィクション国造りの構造が見えてくる。キスマークのキノコ雲で街を満たせたら、という願いは決して古びることはないと思う。
Frozen Silence/マチェイ・オバラ・クインテット(2023)

ポーランドのサックス奏者マチェイ・オバラのリーダー作だが、マチェイ自身は新型コロナのパンデミックでポーランドでの活動が完全に停止し、さらに海外ツアーの道も閉ざされたとき、ワルシャワを離れて一人森のなかを放浪しながら楽曲の素案を練っていたという。ようやく2022年夏にノルウェーのオスロで吹き込むことができたのだが、その溜まっていた情念を吐き出すかのように、無調のように半音階で彷徨う音楽は、行く当てのない道を2回の冬を越しながら過ごすことの恐怖と背中合わせだったことが判る。ジャズというよりは、ロードムービーの即興のエピソードを観ているような、別の意味での臨場感が漂うアルバムになっている。


スタジオモニター4300番シリーズで有名なJBLだが、おおよそマルチトラック収録の環境が整った1970年代のスタジオ録音と相性がいい。D130は野生の馬よろしく、どこか制御の効かない面があり、整ったサウンドでは歪みが目立ちやすい。ところが、録音会場をフィールドに放つと、マイクの数やノイズ対策のために制限を受けた収録条件下でも、驚くほど生々しく再生されることになる。実はD130が1970年代のロックステージで重用されたのは、ライブステージという野戦場での悪路を難なく乗りこなすタフさが売りなのだ。
一般的なレコーディングの作法に寄らないプライベートな場での音楽の在り方を今一度考えさせられたのが、ボブ・ディランが1966年の交通事故後にニューヨーク州山奥のウッドストックに隠遁して、ザ・バンドを呼び寄せて行ったプライベート録音だ。一般的には「ベースメント・テープス」と呼ばれるもので、フォーク音楽のプロデューサーとして有名なAlbert Grossmanが、ピーター・ポール&マリーの録音機材を借し与えたというのだがら、その後の海賊盤とカバー曲の争奪戦は想定内といえよう。ディラン自身はデビューまもない頃から、自分の作詞・作曲の独自性をかなり意識していて、アセテート盤で宅録をして著作権登録していたというのだから、この時期はスターダムに乗ることを一端やめて、作家業に専念したという向きもあっただろう。想定外だったのは、1969年のウッドストックの屋外ライブで、ヒッピー文化の頂点を極めた伝説的なミュージックフェスティバルについて、まさにこの録音が引き金にとなったということはあまり話題にならない。それもそのはず、ディラン本人はショービズの世界から距離を置くことで、ベースメントのセッションをこなしていたわけで、むしろウッドストック・フェスティバルは外側の世界で起きていたことの総決算だったのだ。しかし、こうした屈託ないセッションを聴くと、今どきのYouTubeのような自由配信を志していたのか、かなり不思議な感じがする。

このときに使われた録音機材は、マイクこそノイマンU47、ミキシングアンプにAltec 1567Aなどちゃんとしたものを使っていたが、オープンリール・レコーダーはAmpex 602というポータブルタイプで、アマチュアでも購入できる汎用品であった。おそらく対になっている622アクティブスピーカー(JBL製8インチ・フルレンジ内蔵)でプレイバックしたのだろう。録音・再生帯域は10kHzまでというスペックだが、むしろ変なノイズを拾うことなく機能を絞っているともいえる。

このポータブル・オープンリールは、1954年に開発された600型ポータブルテープレコーダーがもとで、1960年代末にカセットテープが登場するまで、ライブ演奏できる酒場や屋外会場などフィールド録音で活躍した。このレコーダーには対となるアンプ付きスピーカーがあり、そこにはフルレンジスピーカーJBL D260が使われていた。このD260はアンペックス向けの特注品で、エッジからコーン紙まではD208に似ており、センターキャップは黒くアルマイト処理されたアルミドームが充てられている。音質はLE8Tよりもさらに大人しくニュートラルなもので、狭い帯域でバランスの取れた音である。

アンペックス特注のJBL D260

ではアンペックスのポータブルレコーダーを担ぎこんで収録された、フォークブームの裏街道を肴にしてアレコレ語ってみよう。
ニューポート・フォーク・フェステlバル(1959)

長い歴史をもつフォーク・フェスの第1回目の記録。呼びかけ人には、アメリカ中の民族音楽をフィールド録音で蒐集したAlan Lomax氏が含まれており、フォークブームが起こった後の商業的なものではなく、むしろ広義のフォーク(=民族)音楽の演奏家が招待されている。屋外会場ということもあり録音品質は報道用のインタビューで用いられるものと同じもので、フォークは言葉の芸術という感覚が強く、特に楽器にマイクが充てられているわけではないのでやや不満が残るかもしれないが、狭い帯域ながら肉厚で落ち付いた音質である。
ゲイリー・デイヴィス牧師/ガーズ・フォークシティ 1962

盲目のゴスペル・フォークの名手であったゲイリー・デイヴィスのライブを、弟子のステファン・グロスマンがプライベート録音したテープをリリースしたもの。こういうお宝が突如21世紀に出てくる背景には、当時のミュージシャンはレコード会社と契約する際に、契約期間中に演奏したものは他のレコード会社からリリースしない専属契約を強いられたため、著作権の失効する時期までお蔵行きにせざるを得ない事情があった。
1960年代はこうしたプライベート録音が多くあり、コアなファンには喜ばれる一方で、一般の人には評価が追い付かず情報が錯そうしている感がある。例えば、ガーズ・フォークシティが前年にボブ・ディランがデビューした由緒正しいミュージック・ホールだ、なんて触れ込みはほとんど不要である。なぜならば、ゲイリー・デイヴィスのほうがフォークソングの何たるかを身をもって体現していて、まるで大地にしっかり根を下ろした大樹のように会場を包み込んでいるからだ。観衆も他のライブのように演奏中に歓声を上げるなんて無粋なことをせずに、互いに申し合わせたようにじっと聞き入っている。その偉大さは後のディランがベースメント・テープで残像を追っていることからも明らかである。
ピーター、ポール&マリー・ライヴ・イン・ジャパン 1967

来日した海外ミュージシャンでは、ビートルズがダントツの人気だろうが、このフォークグループの日本公演のほうがダントツに面白い。というのも、この公演全体がアメリカという国に抱く日本国民のカオスぶりを総括しているかのように思えるからだ。ひとつは、演奏中の観衆の驚くほどの行儀良さで、それでいてギター1本の弾き語りだけで思う存分歌うことのできる環境が整っていることである。それが素直に3本のマイクで脚色なく収められている。同グループのアメリカ公演の騒々しさに比べると、そのアットホームぶりに驚くのである。そして極めつけは、日本語でのMCを務めた中村哲の渋い声で、ギター前奏で語るポエムがすでにカオス状態に入っている。そしてポール氏の声帯模写に入るとバラエティー満載。オマケは舞台写真でのマリー嬢の毛糸のワンピース。どれもが別々のアイディアから生まれた断片であるが、アメリカンなひとつの現象として観衆が受け容れている。礼儀正しく知性のある国民性、という外面だけを見つめるには、このカオス状態を理解するには程遠い。自然であること、自由であること、何かを脱ぎ捨てる瞬間が、アメリカンなひと時として詰まっているのだ。
ボブ・ディラン/ベースメント・テープス完全版(1967-68)

フォーク音楽をエレクトリック・バンド化する方向転換により、フォークの貴公子から反逆者へと一転したディランだが、1966年夏のオートバイ事故以降、表舞台から姿を消していた隠遁先の小屋にザ・バンドの面々を集めて楽曲の構想を練っていた、というもの。録音機材のほうは、アンペックスの携帯型602テープレコーダーで、フォーク音楽の蒐集にご熱心だったアルバート・グロスマンがピーター・ポール&マリーのツアー用PA機材から借りた。ディラン自身は、自分の詩と楽曲に対する独自性をデビュー当初から認識していて、著作権登録用の宅録を欠かさない人でもあったから、そうした作家業としての営みが専任となった時期にあたる。もしかすると自らをパフォーマーとしての活動は停止し、作家として余生を過ごそうとしていたのかもしれない。しかし、このスケッチブックの断片は、楽曲のアウトラインを知らせるためのテスト盤がブートレグ盤として大量に出回り、それを先を競ってレコーディングした多くのミュージシャンたちと共に、ウッドストックという片田舎をロックと自由を信託する人々の巡礼地と化した。今どきだとYouTubeで音楽配信するようなことを、非常に厳しく情報統制されていた半世紀前にやってのけたという自負と、これから生きるミュージシャンへのぶっきらぼうな彼なりの伝言のように思える。




【モノラルの音壁を全身で浴びろ】


飛行機が音速を越えるとき、いわゆる衝撃波という轟音が鳴り響くらしい。D130のサウンドには、そういう一歩も二歩も音を前に押し出す威力があり、ハラハラドキドキしながら音楽の推移を感じ取るとこころがある。つまり音を発する瞬間の立ち上がりのスピード感が、他のスピーカーに比べ圧倒的に速いのだ。そしてそのスピードは、音場感というホールの深い霧を飛び越えて轟かせる威力がある。つまりマッハの音の壁を突き抜ける音響性能が、D130には最初から備わっているのだ。開発当初には、D130をステップアップするツイーターには、音響レンズでマイルドにした175DLHが想定されたが、後にジェット機の噴射口をイメージさせる075ツイーターが当てがわれた。075を装着したD130は、かなり攻撃的な音になる。
話を再び岩崎千明氏に戻そう。「1962年にやっとステレオを実現するまでJBL D130はそれ一本で充分だった。いかなる音楽を楽しむのにも自作の箱に入ったD130一本の方が、はるかに魅力ある音を、響かせていた。」 このことの意味を深く考えると、そもそもステレオでしか音楽を聴くことの意味は何なのかと思う。つまり音楽を聴くにあたってステレオであることは必須でも何でもないのだ。
これもよく言われることだが、ステージPAはモノラルで流したほうがオーデイエンスの席に分け隔てなくサウンドバランスが整う。しかし家庭のオーディオでライブ録音の臨場感を得たいと思うとき、モノラルを選択する人はほぼ皆無であるといってよく、ステレオでホールの残響に満たされて満足するのだ。それでもモノラルだって、しっかり鳴らせば岩崎氏のように、1本のスピーカーでも魅力あるサウンドを叩き出せるのだ。その意味について色々と考えてみたい。

実はD130を使ったスピーカーシステムの、利点とも欠点とも言えるのが、ステレオ音像である。どの録音でも「音像が一歩前に出る」=「奥行き感がない」ということになり、それだけで好みが分かれるということが挙げられる。つまり部屋の壁一面をスクリーンのように一斉に音を満たすのを好む人には、ヴィンテージJBLの押しの強さに感服するのだが、ヨーロピアン風に一歩下がってホールを鳥瞰するようなサウンドステージを好む人には不満が出るわけだ。しかし、これをみると録音のもつ原音の意味を問う前に、ステレオ音場の定義そのものが異なることに気付くだろう。

ロックのステレオ・ミキシングの方法で、神のように崇められる「ウォール・オブ・サウンド」だが、その教祖というべきフィル・スペクター氏が、1990年代に入って突然、自分のサウンドはそもそもモノラルなんだと公言しはじめ、自身のレガシーとして「Back to MONO」というBOXセットを世に出した。誰もがオリジナルのミックスはステレオだと思っていたものばかりだが、それをあえてモノラル盤で販売したのである。それまで映画館のスクリーン全面を覆うようなマッシブな音場感こそが本命だと思っていた擁護派の意見を全て否定するような行動に、最初は誰もが戸惑ったが、これを機に1960年代ロックのモノラル・ミックスが注目され、それまではゴミ当然に扱われていたイギリス製EP盤などは、ただでさえ高価で売買されていたステレオ盤の数倍もするプレミアがつくようになった。
スペクター自身が語った「ティーンズのためのワーグナー風のポケット・シンフォニー」というウォール・オブ・サウンドの実体とは、当時のティーンズなら誰もが持っていた携帯ラジオでの試聴がターゲットで、多くの人が思うようなワーグナー風のオペラハウスの再現ではなく、ポケットのほうに重心があったと言えよう。先見の明があったといえばそれまでだが、小さな音響スケールでもラウドに鳴るフィル・スペクターのサウンドは、1980年代になっても神のように崇められるのである。

初期のトランジスターラジオの聞き方はトランシーバーのように耳にあててた(ヘッドホンへと発展?)

ウォール・オブ・サウンドが日本の音楽業界を席巻するようになったのは、1980年代のCMソングにおいてである。それまでテレビの歌謡番組への出演を拒否していたニューミュージック系のシンガーソングライターたちが、キャッチーなコピーライトと印象的なメロディーに乗せたCMソングを書き出したことで、楽曲の知名度が従来と比べ物にならないほど上がった。CMソング=ヒット曲といえるような現象が起こったのだ。しかしこのCMソングを視聴していたテレビの多くはモノラル音声の小さいフルレンジが多勢を占めた。1980年代の国内スタジオでは、オーラトーン5cがモノラル検聴用に使われていたが、AMラジオや有線放送でのヒットを意識したものと説明されるものの、本命はテレビCMでの聴き映えのほうである。そっちのほうをしっかりミックスしたほうが売れ行きが良くなるのは必然的でもあった。


いわゆる卓上型テレビ。スピーカーはチャンネル下に申し訳なさそうに収まっていた

ここで今一度、こうしたチープな家電とD130がどのように関連付けられ、発展するかについて考えてみると、そこにこそランシング氏が家庭用の音響機器として思い描いた理想と結びついているように思えるのだ。1930年代から常にHi-Fi再生のトップランナーを走り続けていたランシング氏が、改めて1940年末のレコード市場を見渡したとき、そこにあったのはSP盤とAMラジオで音楽を聴く庶民の姿であったと思う。つまり、それまで華麗なショウビズの世界と一握りの富裕層が目指す最高ではなく、庶民が身近に置いているスペック的にチープな録音でも、迫力あるサウンドを最大限に弾き出すD130が、ランシング氏が自身のブランドの命運を握る作品だったのだ。
誤解されるのを覚悟で言うと、D130はAMラジオを最高の音で聴くために造られたというべきだ。そしてそれは、音楽とは何か?という問い掛けに対する回答であり、躍動感、リズムの切れ、音が盛り上がるときのレスポンスなど、その要素のひとつひとつが一丸となって吐き出され奔流のように渦巻くスピーカーだとも言える。それが本当のうえで認められるのは四半世紀過ぎた1970年代のロックエイジであるが、ブルースマンの多くがフェンダーのツインリバーブを愛用しているところをみると、ギターヒーローに沸いた1970年代初頭のD130の躍進は、地道に生きてきた草の根のミュージシャンたちが存在したからだと言えよう。その意味では、D130の奏でるサウンドは、オーディエンスが多かろうが少なかろうが、等しく聴き手に音楽を届ける能力に長けているのだ。

D130を盛り立てた本当の立役者:レオ・フェンダーとシカゴのブルースマン


ということで、むさ苦しいおじさんばかりでは詮無いので、1960年代にアメリカナイズされた世界中の女の子を集めてみた。一見してお気楽なダンスチューンでもD130で鳴らしきると、一緒に踊るのを断ったら蹴りを喰らったような、どうにも憎めない雰囲気に包まれること請け合いである。ここで、フィル・スペクターとジェームズ・バロウ・ランシングが目指した世界、というかアメリカらしい音楽文化というものが、JBL D130というスピーカーのキャラクターに集約されているように感じるのだ。

シルヴィ・バルタン/あなたのとりこ~60sベスト(1962-68)

レナウン娘(本当はワンサカ娘)として日本のテレビのお茶の間でもおなじみのモデル&歌手のシルヴィ・バルタン。これは日本企画のモノラル・シングル盤コレクションで、アメリカン・ポップスのカバー曲満載の変わり種。そもそもイエイエと一緒にディスコを生み出したのもフランスなので、やはり取り上げないわけにはいかない。シルヴィ自身は、ルーマニア出身ということで、やや野太い野性的な声が魅力なのだが、普通の女性歌手のように可愛さ満載だけでは単調で飽きるが、D130のように胸声まで深くパンチのある音だと、その表現の幅の広さに参ってしまうだろう。
青山ミチ ゴールデン☆ベスト(1962-66)

ゴーゴーといえば、日本でも1960年代初頭に流行っていて、テレビ歌番組「シャボン玉ホリデー」で活躍したスパーク3人娘(中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり)のカバー・ポップスが知られるが、青山ミチのほうはややアウトロー的なパンチのある歌唱だ。これはポリドール時代のシングル盤を集めたもので、ややコメディタッチの「ミッチー音頭」や、和製ポップスの先駆けとなったコニー・フランシス「涙の太陽」の日本語版、GSブームにのりそこねた「風吹く丘で(亜麻色の髪の乙女)」まで、たった5年間を駆け抜けた記録である。印象としては前後5年くらい長く活動していたように感じるのは、やはりひたむきに歌そのものに向き合っていた結果だと思う。
Presenting the Fabulous Ronettes(1964)

ウォール・オブ・サウンドの開祖フィル・スペクターの代名詞となったガールズ・グループの初アルバムである。当然ながらモノラルでのリリースであるが、これを部屋いっぱいを揺るがすだけの音響パワーを出せるかは、あなたのモノラル装置が成功したかを示す試金石でもある。難しいのは、A面のナンバーの録音で音が混み入って縮退(残響音の干渉で音圧が下がる現象)を起こすタイミングで、ちゃんとリズムがダイナミックに刻めているかである。成功した暁には、ベロニカの声がかわいいだけの歌姫ではなく、コール&レスポンスでバンド全体を鼓舞するリーダーとなって君臨していることが判るだろう。こんなことは、アレサ・フランクリンのような本格的なゴスペル歌唱を極めた人にしか許されない奇跡なのだ。多分、後世で起こった「音の壁」に関する誤解は、厚塗りで漠然としたワーグナー風の迫力だけを真似した結果だと思う。音離れよくフルボディでタイミングをきっちり刻めるピュア・モノラルを目指そう。
シュープリームス:ア・ゴーゴー(1966)

まさに破竹の勢いでR&Bとポップスのチャートを総なめしたシュープリームスだが、このアウトテイクを含めた2枚組の拡張版は、色々な情報を補強してくれる。ひとつはモノラルLPバージョンで、演奏はステレオ盤と一緒なのだが、音のパンチは攻撃的とも言えるようにキレキレである。これはBob Olhsson氏の証言のように、モノラルでミックスした後にステレオに分解したというものと符合する。もうひとつは、ボツになったカバーソング集で、おそらくどれか当たるか分からないので、とりあえず時間の許す限り色々録り溜めとこう、という気の抜けたセッションのように見えながら、実は高度に訓練された鉄壁な状態で一発録りをこなしている様子も残されている。可愛いだけのガールズグループという思い込みはこれで卒業して、甲冑を着たジャンヌダルクのような強健さを讃えよう。


大概の人が悩むのは、狭い家屋でD130のような大口径スピーカーを扱うにはどうしたらいいのだろうか? ということだろうか。ひとつのヒントは所詮D130を主軸に置いたシステムでは、ステレオにしたところで奥行きとか定位感などステレオ再生のアドバンテージは出ないということだ。大きな理由は、D130のアルミドームから出る高調波歪みが尾を引いて、定位感を察知させる微弱なパルス信号を乱してしまうからである。現在のほとんどのスピーカーシステムは、ツイーターが発するパルス信号を先行音効果で際立たせるため、ウーハーの波形のタイミングを2~3ms遅らせている。これに対し、D130はライブステージのPA装置で、マイク音声をドラムやホーンセッションに負けない素早いタイミングで拡声する機能性が要求されていたため、ツイーターと競り合って音を弾き出すのだ。

新旧スピーカーのタイムコヒレント特性の違い
左:現在のマルチウェイスピーカー、右:古い設計のエクステンデッドレンジを使った例



上:BBCのステレオ放送用ミニチュア実験とKS3/5a、下:夢にみたオーディオ専用ルーム

このようにD130では、ステレオ配置があまり意味をなさないこともあり、モノラルでも十分迫力ある音響を叩き出すという方向転換を私個人は勧める。例えば以下の図を見てほしい。D130が家庭用として売られていた1950年代にJBLのライバルであった、独ジーメンス社の卓上真空管ラジオ(スピーカー20cm前後)、さらに英BBCに納品されたパルメコ製モニタースピーカー(38cm径)と、箱の大きさも様々だが、各々の試聴位置とスピーカーの距離に注目してほしい。スピーカーのサイズが大きかろうが小さかろうが、1m程度の距離が保たれていることに気付くだろう。これは何を示しているかと言うと、室内でのスピーカーと人の適切な距離は、人と人が面着して会話する距離=パーソナル・ディスタンスとなっていることである。

左:ドイツ製真空管ラジオのカタログ、右:英BBCのモニタースピーカーの配置


D130の音離れの良さ、常に前へ前へ音楽を推進させる魅力は、ソーシャル~パブリック・ディスタンスにおいても、あたかもミュージシャンのすぐそばで聴いているかのような、親密感のあるパーソナル・ディスタンスを保つことにあるのではないか。シンフォニーホールやアリーナでのライブような会場全体の音響だけが、最高の音楽であるとは限らないのである。そもそもミュージシャンとマイクの位置は、パーソナル・ディスタンスよりもさらに近づいた密接距離(Intimate Distance)である。そこにこそ原音の原点が存在するのだが、D130はそこをえぐり出すような再生能力があると言っていいだろう。

1940s、1950s、1960sと時代は変わってもマイクの音は変わらない



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