20世紀的脱Hi-Fi音響論(延長13回裏)

 我がオーディオ装置はオーデイオ・マニアが自慢する優秀録音のためではありません(別に悪い録音のマニアではないが。。。)。オーディオ自体その時代の記憶を再生するための装置ということが言えます。ここでは、サブシステムをモノラル&ラジオ音源用に構築した後に、グラモフォン・レーベル(ただしモノラルのみ)の虜となった幽閉体験が綴られています。
モノラル期のドイツ・グラモフォン
【ドイツの一大マイナーレーベル】
【サラリーマン指揮者たち】
【凍結されたオーケストラ】
【教授のレッスン】
【再生芸術を否定した実用性】
【録音のレビュー】
曇りのち晴れの法則へ→
自由気ままな独身時代
(延長戦)結婚とオーディオ
(延長10回)哀愁のヨーロピアン・ジャズ
(延長11回)PIEGA現わる!
(延長12回)静かにしなさい・・・
(延長13回)嗚呼!ロクハン!!
(試合後会見)モノラル復権
掲示板
。。。の前に断って置きたいのは
1)自称「音源マニア」である(ソース保有数はモノラル:ステレオ=1:1です)
2)業務用機材に目がない(自主録音も多少やらかします)
3)メインのスピーカーはシングルコーンが基本で4台を使い分けてます
4)なぜかJBL+AltecのPA用スピーカーをモノラルで組んで悦には入ってます。
5)映画、アニメも大好きである(70年代のテレビまんがに闘志を燃やしてます)
という特異な面を持ってますので、その辺は割り引いて閲覧してください。



モノラル期のドイツ・グラモフォン


【ドイツの一大マイナーレーベル】

 ドイツ・グラモフォンとえば、クラシック専門レーベルとして、円盤録音の最初期から君臨した老舗中の老舗である。一方で戦後まもない時期のモノラル録音は、フルトヴェングラーとBPOの演奏以外はあまり見向きもされないのが一般的だ。その最も大きな理由は、戦後まもない頃のグラモフォン専属アーチストの枯渇だろうと思う。もともとナチス政権時代に多くの音楽家はドイツ国外に流出したが、グラモフォンは1941年に英米との資本提携を打ち切ったうえ、国内に残った主要アーチストも国策会社だったテレフンケンに収斂される傾向にあった。そのうえ戦後は多くのドイツ人演奏家はEMIやDeccaに録音することが多かった。グラモフォンのLP発売はようやく1952年からで、米国ではDeccaレーベルとして販売された時代もあった。1950年代のドイツ・グラモフォンは、LP時代の到来にあたって、旧来のカタログを一新するにも、アーチスト、資金、機材の全てにおいて事欠き、いわば余り物を喰わされていたような感じである。ドイツ国内の演奏家に絞り込んだ結果、マイナーレーベルのそれに限りなく近い状態が、1950年代のドイツ・グラモフォンにはあった。
 例外的に、フルトヴェングラー/BPOのシューベルトNo.9、シューマンNo.4、ベームが鉄のカーテンの閉まる前のドレスデン・シュターツカペレを指揮したR.シュトラウス作品などのように、名曲名盤のセッションも存在する。
 こうした黄金コンビによる一期一会の記録に対し、圧倒的に多いのがカタログ拡充のために製作したとしか思えないような、職人&学者たちによるルーチンワークである。これに拍車を掛けているのが、イエローレーベルと呼ばれる、簡素な紙袋に黄色帯と題字のみでレイアウトされたジャケット・デザインである。これを見て誰もが made in Germany の工業製品としか思わないだろう。しかし、これがかえって当時のドイツ楽壇の底力を偲ばせるに十分な内容となっている。


設立50周年の大看板(1948年)
 
ハノーヴァー・スタジオの録音ブース(1956年)


【サラリーマン指揮者たち】

 この時代のドイツ・グラフォンに録音した指揮者について、あえて言えばこうである。
 ネクタイ姿でオケピットに通勤して、課せられた録音ノルマを時間内にきっちり終える。オケの能力に合わせ作品の設計図面を自分で引くこともできて、途中で無茶な計画変更などせずに、ベテランの職工にも信頼されている。これはまさしくDIN規格で造られた製品であって、万人が聴いても不具合の生じない品質を保証するものである。製品ができあがったら、黄色い紙袋に詰めて店頭に並べるのを一緒に手伝う。
 果たしてこれが芸術と呼べるだろうか?誰もがそう思うし、長らくそう思われてきた。当時の指揮者は、ヨッフム、F.レーマン、ケンペン、ライトナーなど、職人気質の指揮者がずらりと顔を揃え、より国際的なスタイルをもつフリッチャイ、マルケヴィッチにしても、同時代の強烈な個性をもち国際的に活躍したフルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターらのような指揮者に比べると、有能なオーケストラ・ビルダーという感じが強い。あえて言えば、昔のパ・リーグのピッチャーのように、見せ場を盛り上げるタレント性はないが、防御率という実績でいえば一流という感じか。
 しかし、このルーチンワークから生まれた不作為の作為こそが、ドイツの文化的環境を忠実に写し取った生写真なのである。一見すると街頭のスナップ写真のように、派手な衣装や演出された構図もないため、どこか特別なものを感じない。だが、これも年月が経てば、時代の雰囲気や人々の暮らしぶりが、かえって活き活きと判るのである。例えていえば、ライカやローライフレックスで撮ったモノクロ写真のように、高忠実であると同時に人肌を感じる暖かみがある。

 ドイツ・グラモフォンの場合、歌劇場でカペルマイスターとしての職歴をもつ指揮者に大きな信頼を寄せていた面があるが、そのなかでも異色を放つのがフリッツ・レーマンである。有名な歌手ロッテ・レーマンの弟で、ゲッティンゲン歌劇場のカペルマイスターの経験こそあるものの、どちらかというとバロック作品を演奏することが得意だったようで、どのオーケストラの常任指揮者にもならないフリーランスの指揮者として、戦前は地元ゲッティンゲンでヘンデル音楽祭を開催したり、戦後もArchiveレーベルでのバッハ・カンタータ集の録音が予定されていた(後任はリヒター)。同じタイプの指揮者にリヒター、ミュンヒンガー、バウムガルトナーなどが挙げられるが、F.レーマンはその先輩格にあたる人である。
 そのレーマンが、戦後まもないドイツ・グラモフォンで古典派からロマン派の幅広いレパートリーを担うようになったのである。どちらかと脇役のように思われがちな協奏曲のオケ伴では、ハイドン、モーツァルト、シューマン、ショパン、ドボルザーク、ブルッフで、学の高い名手シュナイダーハン、ゼーマン、アスケナゼ、マイナルディなどを一見地味だがそつのない演奏で引き立てているし、管弦楽ではハイドン、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ドボルザーク、フランク、ファリャ、ディーリアス、プロコフィエフなどの演奏機会の少ない比較的小品に属する作品を演奏したほか、オペラではフンパーディンク、スメタナ、声楽作品ではブラームスのドイツ・レクイエムなども録音している。こうしてみるとレーマンは、フリッチャイとレパートリーを二分していたと言っても過言ではなく、フリッチャイがRIAS響で専任していたのとは対照的に、ベルリン・フィル、バンベルク響、ミュンヘン・フィル、RIAS響など複数の団体を横断しながらセッションをこなし、いずれもホッホ・ロマン風の小粋なフォルムでまとめているのが好印象である。小市民オーケストラと言おうか、日本での「オーケストラがやってきた」のような草の根運動的な印象も受けるのである。


Klangfilm社の移動式映画館の例



Siemens社 スーツケース・スピーカー
2000型映写機用

 そういえば当時のドイツでは、小学校などを巡回する移動映画館やレコードコンサートがよく行われ、LPレコードはそうしたところで使われる教育的な用途もあったと思われる。そもそもドイツ・グラモフォンはジーメンス社の傘下にあり、レコード・コンサートは当然ジーメンス社のPAシステムで行われたと考えられる。もちろんKlangfilmも擁する大企業であるため、高級オーディオ機器の製造もあるにはあったが、戦後霹靂としたドイツ人が新たにオーディオを購入できるわけもなく、こうしたサービスを通じて新しいHi-Fi機器を知ってもらおうという意図も感じられる。巡回用の簡易PAは、25cm程度のフルレンジスピーカーをスーツケースに治めたものを、10W程度のEL84アンプで鳴らしていた。50名強の人数なら、これで十分な音響が得られた。
 そうした観点でF.レーマンの演奏を聴いてみると、一流のオケを起用しながら、楽譜通りの模範演奏という感じがする。名演奏だからと子供にフルトヴェングラーの演奏をいきなり聴かせるのはどうだろうか? あきらかに大人が抱える苦悩などまだ無縁の年頃には、クラシックがおどろおどろしいモノに聞こえないだろうか? その意味で、F.レーマンの演奏は高度に教育的で穏和な世界を提供しているのである。


【凍結されたオーケストラ】

 指揮者の権限の強まった20世紀の芸術音楽において、オーケストラは作曲家の僕のさらに僕のような存在で、ほとんど表舞台には立たない。しかし、1950年代のドイツ・グラモフォンが、国際的に名の知れないドイツ国内に密着した演奏家を揃えた結果、英米のレーベルが隠避した「正真正銘にドイツ的な演奏」について録音を残したというパラドックスがある。その最たる例が、ベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、ドレスデン・シュターツカペレなど、ドイツ的な伝統を色濃く残したオーケストラの録音である。ドイツ的とは逆にいえばナチスのプロパガンダに協力したオーケストラであり、かつて運営組織そのものがナチス寄りであったこともあって、英米のレーベルは明らかに避けていたと言えよう。また戦後に設立されたオーケストラでも、バンベルク響のようにプラハやシュレジエンから追放されたドイツ系住民によるオーケストラや、米国の傀儡オーケストラと思われがちなRIAS放送響にはベルリン歌劇場のメンバーが多く含まれていたなど、「余り物」にしてはまさしくドイツ的で豪勢なサウンドが聴かれた。しかもこれらは、1960年代には演奏スタイルの国際化によって失われた響きでもある。

 一方で、これらは1930年代のナチス政権の影響で、保守的な響きが恣意的に凍結保存されたと思える節がある。多くのオーケストラの団員が、まずユダヤ人か否かで振るい分けられ、更にナチス政権の意向に忠実か否かで絞られ、従来の伝統は事実上解体の危機にあったと考えて良い。戦後にドイツ・オーストリア系の伝統を色濃く残したオーケストラ団員出身の演奏家には、1930年代に若干20歳そこらでコンサートマスターや主席奏者に抜擢された人が多い。これもワイマール時代の自由な気風を断絶して、プロパガンダに利用しやすい若者を選んでいた節があり、多くの人が特定の師弟関係をもたない音楽大学の卒業生から選ばれている。例えば、マーラー時代からウィーン・フィルの重鎮アルノルド・ロゼはユダヤ系ということで排斥されたが、後任のシュナイダーハンは若干23歳でコンサートマスターに抜擢された。1938年から1949年の激動の時代にあってウィーン・フィルの伝統を保持した良き管理者であったが、この時代にあってこそ伝統的な演奏法を集中的に学び、保守性を重んじる傾向がみられる。アントン・カンパーらがウィーン・コンチェルトハウス専属カルテットに選ばれたのも同じ時期で、やはり伝統的な奏法を身につけた貴重な存在である。
 逆に彼らの先輩格にあたる、ロゼ、コーリッシュ、ブッシュなど、ウィーンやドイツの名手を有する弦楽四重奏団の多くは、ナチス時代を境に英米へ亡命しているが、彼らは新しい音楽技法に対し、より柔軟な姿勢をとるのが常であった。シゲティなどもヨアヒム門下の伝統を最も強く保持しているにも関わらず、新たな伝統を創りだすため新曲の演奏に精力的だったといえる。ナチス・ドイツ時代からは、退廃音楽との関係で保守性が余儀なくされ、それが政治的強制を伴って音楽家の演奏可否を決定された。このため、ワイマール時代には多様な演奏スタイルが競合していたドイツで、それまで曖昧にされ流動的であったドイツ的演奏スタイルが固定化されていったと考えられる。

 1938年のプラハでドイツ・フィルハーモニーのコンサートマスターからキャリアをスタートさせたルドルフ・ケッケルトの場合は、より複雑である。このドイツ・フィルハーモニーは、プラハ音楽院で学んだ楽団員により、いわゆるハプスブルク時代の芳醇な伝統を保持するアンサンブルが特徴である。敗戦後に連合軍が各国に移住していたドイツ系住民を追放しドイツに帰還させる命令によって、バンベルク市に集結し、いち早くドイツ的な伝統を保持したオーケストラとして成長した。その後ヨッフムが1949年にバイエルン放送響を立ち上げる際に、ケッケルト弦楽四重奏団のメンバーは主席奏者として引き抜かれ、1960年からは同じ亡命チェコ人のクーベリックを迎える先見性をもっていた。この30年のなかで10年区切りで、通常なら世代交代によってなし得る演奏スタイルの変換について、時代の要請に応え自らを変革しえたアンサンブル力には全く驚くべきものがある。

 もうひとつ、この時代のオーケストラで忘れてはならないのが、放送交響楽団の乱立である。ドイツで放送局を持つ都市なら必ずあるといえる状態で、1949年のバイエルン放送響が遅いとも言われるくらいである。そしてこの「新生」オーケストラは意外に実力が高く、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュといった大物指揮者が振っても立派に演奏をこなしていた。それもそのはず、戦犯騒ぎで突かれ自主運営の厳しいかつての歌劇場やフィルハーモニーのメンバーが、国費を使って堂々と運営するラジオ局に流れ込んだのである。バイエルン放送響にはバンベルク響の首席奏者が含まれていたし、RIAS響はアメリカの意向で組織された団体のように思われがちだが、元ベルリン歌劇場の団員が多く含まれていた。RIAS響の柔軟で推進力のあるアンサンブルはエーリッヒ・クライバーが音楽監督だった時代の名残を感じさせる。この点は、フルトヴェングラー時代のベルリン・フィルとは違う方向性があり、かつてのベルリン楽壇の賑わいが戻った感じがする。ベルリン・フィルは1955年からカラヤン体制となり、急激に国際様式に接近したため、RIAS響のもつモダニズムは過去のものとなってしまったのは残念である。こうして全部が全部、国際標準化した機能的なアンサンブルを目指すようになったため、地方性豊かなドイツ・オーケストラの響きは1950年代が最後となったと言って過言ではない。

 このように、1950年代のオーケストラにおけるドイツ的伝統とは、ナチス政権によって解体しかかった旧来の伝統を若い青年時代に背負わされ、20世紀において保守性がより強調された状況を指していると思われる。それは例えて言えば、ちょうど1930年代から進歩することをやめ、そのままドイツの各地方に奥深く貯蔵されていた年代モノのワインに例えられよう。コルクを抜いたその瞬間に、その匂いが部屋中に立ち籠めるような感触が、この時代のオーケストラにはある。それも看板シェフが前面に出てくるよりも、手慣れたウェイターによってさり気なく出されたときに、このワインの味が一層引き立つ。上記のサラリーマン指揮者は、良きウェイターであり、ワインと料理の兼ね合いをしっかり把握している管理者でもあったのだ。


【教授のレッスン】


1950年代のケンプ
日常的にピアノに座って暮らしている感じがにじみ出ている
 新生ドイツ・グラモフォンはLP時代の到来と共に、ナチスとの関連を連想させる戦前の録音に代わって、新録音でのカタログ整備が急務だったと思われる。そこで器楽奏者として白羽の矢が立てられたのが、かつてのドイツ楽壇を陰日向で支えた大学教授たちである。
 ドイツ・グラモフォンが録音した器楽奏者には、ピアニストではケンプ、ゼーマン、フォルデス、弦楽奏者はシュナイダーハン、マイナルディ、ケッケルト四重奏団など、どちらかというと学者肌の演奏家を選んでいる。それもバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどで、名曲名盤という黄金の組み合わせではなく、いきなり全集で挑むという無茶な企画が多く、あたかも図書館に売るために造ったのではないかと疑うほどである。そして演奏内容もかなり渋い。これらの録音は、ステレオ期になって再録音したり、別の決定盤が出て急速に忘れられたものも多い。
 今聞き直してみると、ほとんどが新即物主義(ノイエ・ザハリッヒカイト)の中核を担った人々であり、技法で聴衆を魅惑するヴィルティオーゾから脱皮し、カール・フレッシュが説いたような、演奏家の人格を芸術家として観念化する歴史的過程を直に経験してきた人々であった。とくに20世紀初頭に学生だった演奏家の多くは、大学で哲学を専攻するというのがよくあるパターンであった。先頭を歩んだフレッシュやシュナーベルのようなユダヤ系音楽家が、ナチス・ドイツからいち早く排斥されたのちは、より内面に向かって語りかける哲学的な雰囲気を強めていったように思える。残された録音は、いわば教授のレッスンを拝聴しているような感じである。


20世紀初頭の音楽大学
才能ある子をS.ワーグナー、レーガー、ニキシュ、R.シュトラウス、コルンコルドが拝聴している(R.シュトラウスは楽譜、S.ワーグナーは金袋)
 しかし、この教授のレッスンは、戦後の演奏論というか、演奏批評の大きな潮流ともなっているのである。つまりクラシックが高度な識者のための音楽という感覚は、一面的な見方という感じもするが、ドイツの新聞(それも一般紙)で展開された論評は、クラシック演奏家を観念化するのに重要な舞台となったし、その批評に耐えうる演奏家がよりレコーディングの機会を増やすようになった。こうしてレコード市場が演奏家の流儀を変えていったのである。
 一方で、こうした批評活動の礎を築いた元祖「即物主義者」たちはどうだったであろうか? もともとマーケティングやプロパガンダと無縁の教授たちは、あえて舞台ウケするような誇張を混ぜずに、頑固に自分の演奏論を記録に残そうとした。そのうえ、比較的骨太なモノラル録音で残された結果、ちょっと聞きだけなら朴訥として印象が極めて薄いのである。このとき、ふと気付くのは、元来の新即物主義とは、後のレコード市場を支配した批評家たちとは一線を描く、強いフォルムをもつ構造主義者であったことである。最も違うのは、批評家が時間の移り変わりに支配されるのに対し、戦前の新即物主義にはその甘さがない。それはワイマール→ナチス→敗戦後という時代の変化のなかで、真実に残るものを演奏を通じて思索した結論である。今になって、この時代の教授たちの音楽を聴く喜びは、如何なる抑圧的な政治状況(大衆性も含む)においても潰されない本当の自由を、生涯を掛けて求めることの大切さを知ることである。


【再生芸術を否定した実用性】

 よくグラモフォン・レーベルの愛好家には、「斯くあらねばならぬ」的なこだわりがあるように思える。個人的には、モノラル録音に限った場合、機器と録音の相性の問題はあっても、もっと気軽に聞かれてしかるべきもののような気がする。特にフルトヴェングラーの録音を基準に持つことで、装置へのこだわりを気難しくしているような感じがする。少なくともグラモフォンの1950年代のモノラルは、1960年代のステレオとはサウンドの傾向が違うし、英米のレーベルで似たような音色のものもない。しかも、戦後の混乱期も重なり、再生装置の実像が見えにくいのだ。いきなりゴールを目指さずに、幅広く1950年代のグラモフォンのサウンドに浸ると、その特徴と展望が見えてくるように思うのである。

【1950年代のドイツ製音響機器】
 1950年代のドイツのオーディオ機器に目を向けると、意外にシンプルなシステム構成であることに気付く。そもそも100dB/W/mの高能率スピーカーを鳴らすことを前提としているので、家庭用はおろか、小規模PA装置でさえも5W〜10Wで十分な音圧が得られた。そしてスピーカーはフィックスド・エッジでベークライト・製のスパイラル・ダンパーを用いているため、小音量でも反応スピードが早く、EL84やEL82(6BM8)のシングルで十分に鳴るし、そもそも大入力を入れることはできない。当時のほとんどの人は、AM放送規格に適合した8kHzまでが限界のフルレンジ・スピーカーで十分だと感じていただろうし、実際にドイツ製フルレンジは、ドイツ語の発音の特性から4〜8kHzが強く出るように調整されているので、高域の不足はほとんど感じないだろう。以下は戦前のスピーカーの特性であるが、最初の2way化によるワイドレンジ化からはじまり、1930年代にはシングルコーンのフルレンジで十分な高域特性が得られている。


Siemens&Halske社の2way特性(1928年)

Isophon P25の周波数特性

 これを普通のフラットな特性で聞く場合は、ヴァイオリンとピアノの音色の違いが気になるだろう。ヴァイオリンは中高域が強いのに、ピアノは高域の落ちたカマボコ型である。このことの原因も、ドイツ製スーピカーの2kHzの落ち込みと4〜8kHzの盛り上がりで説明できる。この強く出るのは単純に音圧が強いだけでなく、反応も早い特徴がある。なのでイコライザーで上げて調整してもどこか不自然なところが残るため、あくまでもスピーカーの機能で補うべきものである。これにEL84やEL34などのビーム管を合わせることで、帯域が狭くても切れ込みの強いサウンドが得られる。

 また当時に良く行われたレコード鑑賞会というのも注目して良いと思っている。ようするに公民館の映画鑑賞会の延長のようなもので、そのときに使われたのはオイロダインのような立派な劇場用スピーカーではなく、スーツケースに入れた25cm程度のフルレンジスピーカーで、アンプもEL84プッシュプルで十分な音量が得られた。フルレンジでも10kHzまでの再生周波数でサービスエリアが約50度得られることから、ちょっとしたホールでも十分に鳴り渡る。必要な機能を絞った現実主義から学ぶべき点は多いように思う。


Klangfilm社の移動式映画館の例



Siemens社 スーツケース・スピーカー

 注意したいのは、ドイツ・グラモフォンのLP発売は1952年からで、それ以前はVARIABLE GRADE という78rpmのシェラック盤だったことである。1941年からテープ録音を実用化していたドイツにおいて、意外に思えるかもしれないが、テープ録音→ラッカー盤という工程を終えるとテープが破棄されることもしばしばあった。その後、LP用にテープにダビングされ保存されたものもある。例えば、フルトヴェングラーの1951年セッション録音、ケンプのベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集のうち1951年録音は本来ラッカー原盤だとされる。逆に戦中からテープ録音での放送を楽しんでいたドイツ家庭において、Hi-Fiという文字はあまり意味がなかったらしく、LPの表示は「LANGSPIELPALTTE 33」という規格を示すのみである。このことからも、ドイツの放送規格とのグレーゾーンを辿っていたことも十分に考えられる。このラジオ音源も曲者で、最近オリジナル・テープからリマスターされた、ベルリンのRIASやウィーンのRot-Weiss-Rotの録音は、1940年代でも驚くほど鮮明である。マイクの生音に近いので、人によっては高域がうるさいと感じるだろう。要は一般に流布する媒体に、これまで該当するものがなかっただけなのである。

 家庭用オーディオについては、当時のドイツの状況からすると、以下の3タイプに分かれよう。
  1. ほとんどの庶民はラジオで試聴し、LPを聴く機会はレコード鑑賞会も多かったと思われる。また一体型コンソール(Kombination:コンポ)も多数あった。これらの場合、ほとんどの場合フルレンジのみが基本である。
  2. 海外向けの高級オーディオ機器では、高域拡散用にコーン・ツイーターが幾つも付いているタイプが多い。これは1950年代のドイツにしかみられない様式である。
  3. スタジオモニターで有名なLorenz社のポリエチレン製ツイーターは、英米のスタジオ機器で持て囃されたことから一目置かれているが、強烈な高域特性で、いわばF1レーシングカーのようなものである。
 このように当時のどのような立場で試聴するのかでも、録音に対する印象が違うと思う。それほどに、1950年代のドイツ・グラモフォンの録音は評価が定まりにくいのである。


Siemens社の高級オーディオ
Kammermusik Kombination Z59M(1955年)
オープンリール、LPプレイヤー、チューナーを装備
6 Ruf lsp. 23a (ウーハー4本、ツイーター6個)を
EL34プッシュプルで鳴らす

ELAC社の携帯型LPプレーヤー
ラジオにつなげて聴くため過般用取手が付いている

上記 6 Ruf lsp. 23aの中身

ドイツ製ラジオの3D-klang方式
中央のメインに対し両横に小型スピーカーで高域拡散

 ただし、ドイツ製フルレンジは、家庭用から簡易PAまで幅広く使われ種類が多く、互いにOEM生産しているものも多いため、どのメーカーが良いということは言いにくいし、1960年代からフラットな音にシフトしているものもみられるので、同じ型番であっても注意する必要があるように思っている。ベークライト・ダンパーのもので良品が出れば試してみたいと思うが、樹脂の経年劣化で早期に疲労破壊する可能性もあるので選定が難しいだろう。物資の少なかった時代の製品から選別するのに、品質保証を求めるのは難しいように思う。いずれスーツケース・スピーカーでもと思うが、そこまでするならELAC社の携帯プレーヤーでオリジナルLPまで備えるべきだと思う。そこまで入れ込む余地は今のところないのが正直なところである。

【低予算でアプローチ】
 クラシックだからとタンノイ&オルトフォン、ドイツ製だからとクラングフィルム&ノイマン、そうした至高のアプローチも良いが、モノラル期のドイツ・グラモフォンの録音品質があきらかに追いついていないように思える。逆にEMIやコロンビアの音のほうが良くて、思い入れの割にがっかりするだろう。ただはっきり言えることは、高能率だからと1970年代以降の重たいウーハーをEL156で鳴らすことはあり得ないと思うし、高域が足らないからと10kHz以上の再生周波数を無闇に伸ばす必要もない。モノラル期のドイツ・グラモフォンは、もっと広い階層のユーザーに開かれた再生方法があるのだと思う。
 ここでは個人的なプランで組んだ低予算システムを以下に示す。
  1. 95dB/W/m以上の高能率で、高域の4〜8kHzが落ちないフルレンジ・スピーカー1本
  2. EL84(6BQ8)、EL82(6BM8)などの小型ビーム管のシングルアンプ
  3. 録音品質のばらつきが大きいためイコライザーは必須
  4. CD再生の場合は古いライントランスで微妙な味付け
 フルレンジスピーカーでは、私の所有しているのは米Electro Voice社のSP8Bという20cmユニットをBaronetというコーナー型バックロードホーンに納めている。ドイツ・グラモフォンは米Decca(コロンビアではない)と提携していた時代があって、そちらの流儀でのアプローチとなろう。当時のEV社はPatricianという4wayシステムを筆頭にHi-Fi再生の先端を行っており、アメリカ製でクラシック再生ではトップを行くメーカーと考えていいと思う。一方で、Baronetのような小型システムでは、小音量で快適に聴けるように高域の扱いを変えているて、SP8Bはアメリカ製では珍しくダブルコーンを使い4〜8kHzを持ち上げている。これはテープ録音がドイツから移入された初期の、Hi-Fiらしさを演出する工夫であり、このことが1950年代の家庭用システムを知る鍵であるように思われる。これと同じ傾向の音では、サブコーンが付いたイギリスのLowther PM6、最近の製品ではイタリアのSICA社のPA用フルレンジも同様の特性を持っていて有用だと思う。
 1950年代のEV社がドイツ的なサウンドポリシーを持っていたと言える理由のもうひとつは、同時代のIsophon社のカタログとの比較でも明らかになる。当時はモニタースピーカーとして開発され、テレフンケンのスタジオ等で用いられたOrchesterスピーカーには、姉妹品のPH2132/25/11があり、2つのユニットの特性の違いは、EV社の説明と同じとみられる。また小型スピーカー"Cabinet"のインストール方法にも類似性が指摘できよう。SP8Bも1960年代初頭の第3世代となると、フラット志向に集約されるので、Hi-Fiの過度期におけるビンテージ・オーディオの一断面である。

Isophon Electro Voice





 アンプはあえてキット製品で使われるようなEL84シングルアンプを使ってみた。実際、高能率スピーカーをつないだ場合、普通の家庭用であれば1Wもあれば十分である。小型ビーム管のほうが、低音は弾むように鳴るし、中高域のほのかなツヤが美音を演出する。ただし、録音品質にばらつきが大きいためイコライザーは必須である。グラフィック・イコライザーのように仰々しいものではなく、3バンドあれば十分で、BEHRINGER社の製品が安くてカッチリした音で相性も良い。

 古いライントランスでは、10kHz以上を落としてあげたほうが響きが澄んで聞こえるという逆転現象もみられる。多分、トランスの磁気ヒステリシスで中域にコクと粘りが出るのと、ビーム管特有の高域のツヤ(小さいリンギング)が純粋に乗るからだと思う。ちなみに私の所有しているのは、1950年代の米UTC社の軍用マイク・トランスで、50Hz〜10kHzがフラットというナロウレンジであるが、レンジ感はピタリと納まってビロードのような肌触りがでてくる。裏技として1920年代の英国製ラジオ用インターステージ・トランスを使ってみると、5kHz以上が丸まって上品なHMVの音に変わる。これもイコライザーでハイ・カットした音とは違う伸びやかさが出るので不思議だ。こうしたアナログ時代には存在した電気的なトラップを重ねていくことで音の熟成度が増すと思われる。

【パンドラの箱】
 ここで、アンプを中国製デジタルアンプに繋ぎ換え、禁じ手のフルレンジ並列繋ぎをやってみた。なんとIsophonのフルレンジを裸で鳴らして、Baronetのツイーター替わりにどうかと、一種の3D-klang方式よろしく、お気軽に乗せてみたのだが…。結果はすばらしいの一言である。
 これまでフルトヴェングラー/BPOのシューベルト グレート交響曲に抱いていたモヤモヤが一気に吹き飛んだ。この録音の難しさは、LP直前のヴァリアブル・グレードというSP盤がオリジナルであり、ようするに録音規格が不安定な時期にあたる。名演奏と言われるが、全体にくぐもった音で、今ひとつピンと来なかったのだが、不思議とバランスが取れた。同じことはピアノ系の音にも言える。高音の開放感と共に打鍵の明瞭さが加わり、今までの暗雲立ち込めるような不快感はない。
 考えてみるとIsophon P1826/19/8は、1953年開発のラジオ用スピーカーであり、単体では高域に強い分割振動を伴うドイツ訛りのある音である。しかしここでは、エレボイのアメリカ東海岸の陰影のある音に巧く被さって、コロンビア系の音に先祖返りをはたすことにできたのだ。逆にいえば、古いドイツ・グラモフォンの音は、強い分割振動がないと、高域のバランスが取れないということになる。これは入力信号に過度に反応する倍音成分なので、いくらイコライザーでいじっても修正できない。高域不足なのではなく、一種の倍音が乗るように調整されてはじめてバランスが取れるのだ。


Isophon P1826/19/8の裸特性


Electro-Voice Baronetの特性

EV Baronet+Isophon P1826/19/8の特性


【録音のレビュー】

【凍結されたオーケストラ】
 交響曲はクラシックの華だが、1950年代のグラモフォンの録音は以下の3つの時期に分類できると思う。基本的にNeumann社のマイクとAEG社のテープレコーダーで収録されたが、音質は年代毎に性格が異なる。大まかに分けると以下のようになろう。
  1. 1951〜52年:1951年はまだヴァリアブル・マイクログレードと呼ばれる78rpmシェラック盤が原盤で、録音はNeumann社のCMV3型マイクを1本のみ天吊りで収録する方法と考えられる。録音技師はHeinlich Keilholz氏が一環して担当している。CMV3型マイクは戦前に開発されたもので、高域の指向性が狭いのが特徴である。ボーカルやスピーチには良いが、オーケストラを1本で録りきるには、高域のエネルギー不足とブーミーな低音などの癖が出やすいようだ。
  2. 1953〜55年:録音を大量に行った時代で、ベルリン、ミュンヘン、ドレスデン、バンベルクと並行してセッションをこなすため、複数の録音クルーが組まれた。マイクはM49に変えられたと思われ、高域の指向性の改善のため音抜けが良くなっている。低音は絞っていないため、ブカブカするのはそれ以前の録音と共通である。
  3. 1956年以降:3本のマルチマイクが使われ、音の潤いがそれ以前とは全く異なる。特に木管群のツヤが加わることで、中域の厚みが充実して音に立体感が加わる。多分、ステレオ収録のテストも行っていたと考えられ、あえてホールトーンを活かした録音も多い。

1947年のベルリン放送協会大ホールのライブ収録
Neumann CMV3を天吊りマイク1本で収録

1956年の北ドイツ放送響の収録風景
両脇の2本のM49がメインマイクで木管と金管が恣意的に左右に分けられる

A.ベルリン・フィルハーモニー

シューベルト 交響曲No.9 グレート 
(1951年)
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ハイドン 交響曲No.88 V字 (1951年)
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ブラームス 交響曲全集 (1951、54、56年)
 オイゲン・ヨッフム指揮
ブラームス ヴァイオリン協奏曲 (1953年)
 ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn) パウル・ファン・ケンペン指揮
ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲 (1953年)
 ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn) パウル・ファン・ケンペン指揮
シューベルト 交響曲No.3&4 (1954年)
 イーゴリ・マルケヴィッチ指揮
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 (1956年)
 ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn) パウル・ファン・ケンペン指揮
モーツァルト セレナーデNo.13 グラン・パルティータ (1957年)
 フリッツ・レーマン指揮

 1950年代のベルリン・フィルは、ウィーン・フィルとは対照的に複雑な立場に立たされた。政治的な問題もさることながら、ニキシュの後任として戦前から終戦にかけて20年以上連れ添ったフルトヴェングラーから、1955年から半世紀に渡り常任指揮者となったカラヤン体制への分岐点にあたり、その煮え切らない状態のなかで様々な指揮者と録音を残している。ドイツ・グラモフォンのなかで、ベルリン・フィルがどの程度の立場を占めていたかは微妙だが、様々な決定盤を出せるポテンシャルを持っていたことは確かだろう。フルトヴェングラー以外にも、ベームとのブラームス、R.シュトラウスなどの録音は重要だし、ケンプやシュナイダーハンが協演した協奏曲も歴史的名演と呼んで差し支えない。やはりハンス・フォン=ビューローばりのクラシック音楽の殿堂が生きていると言わざるを得ない。
 一方で、名門中の名門という看板が重荷となって、レパートリーの狭さが否めないようにも思う。この辺の穴を埋めるべくマルケヴィッチが起用されたが、多分セッションに時間が掛かりすぎたと思われるほど、入念な演奏が残されている。ヒンデミットの自作自演集も掘り出しものだろう。しかし、この辺の手際の良さというか、練習の付け方はRIAS響やバイエルン放送響のほうが一枚上手であり、フリッチャイ、ヨッフムという有能なオーケストラ・ビルダーが専属に付いていることの利点がある。カラヤンの起用もその辺に理由があったのかもしれないが、そのカラヤンも1957年からEMIへの収録にベルリン・フィルを起用するようになり、グラモフォンはまたしても痛手を喰らうことになる。いわゆるカラヤン時代ということで1955年を境に伝統をいきなり変えるというのは無理があり、やはりEMIセッションの始まった1957年からと考えるべきである。これらはちょうどステレオ録音とのグレーゾーンにあたり、ステレオで残された演奏は既にカラヤン色に染まったというのは合っている。1957年のグラン・パルティータは古参の管楽器奏者たちのポートレイトかもしれない。
 ベルリン・フィルの1951〜57年のおよそ7年間の軌跡を辿るとき、フルトヴェングラー時代から万華鏡のようにスタイルを変えつつ歩んでいて、オーケストラの実態が掴みにくいのが正直なところである。この点は1960年代のカラヤン時代は安定していて、カラヤン/ベルリン・フィルといえばあの音、という想像が付きやすい。逆にいえば、ベルリン・フィルにおいて伝統と革新の玉石混淆の多彩な表情を楽しめるのが、1950年代のドイツ・グラモフォンの魅力でもある。やはり、オーケストラの生写真という感覚が合っているのである。
B.バンベルク交響楽団

モーツアルト セレナーデNo.7 ハフナー 
(1951年)
 フェルディナンド・ライトナー指揮
ブルッフ ヴァイオリン協奏曲 (1952年)
 ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn) フリッツ・レーマン指揮
ドボルザーク 交響曲No.8 (1953年)
 フリッツ・レーマン指揮
グリーク 組曲ペール・ギュント 
(1953年)
 オイトマール・スウィトナー指揮
フランク 交響曲 (1954年)
 フリッツ・レーマン指揮

 バンベルク交響楽団の前身は、1938年にカイベルトの指揮のもと、チェコ国内のドイツ系住民により結成されたプラハのドイツ・フィルハーモニーである。1945年のドイツ敗戦後は、連合国によりドイツ系住民をドイツ本国へ強制送還する命令を出したため、19世紀以前からの古い移民なども全て移住することとなった。事実、ドイツ・フィルハーモニーの団員はほとんどがプラハ音楽院の出身であり、当時のプラハがウィーン古典派から続く芳醇な伝統を有していたことを示している。チェコから強制送還されたメンバーはバンベルク市に集結し、これにシュレジエンのドイツ系住民の団員も加わり、戦後またたく間に優秀なオーケストラとして知られるようになった。
 1949年からカイベルトが再び主席指揮者を務めているが、カイベルトはTeldecレーベルと専属契約したため、ドイツ・グラモフォンでの録音に際しては、レーマン、ライトナーなどが交代して指揮を担当した。ここでもグラモフォンのくじ運の悪さが目立つが、残された録音を聴くとまんざらそうではない。むしろオーケストラの自主性が引き出されて、オケの味が濃いような気がするのだ。このオーケストラの魅力は、現在ではドイツ的な響きを残している数少ないオーケストラとして知られるが、1950年代はむしろチェコ・フィルとベルリン・フィルをミックスしたようなコスモポリタン的性格をもっていたといえる。どっしりした低弦はベルリン・フィルのそれに近いが、弦と管のバランスはほぼ互角であり、ヴァイオリン・セクションがやや前のめりでアンサンブルの推進力を生み出している。内声部が若干弱いため重厚さに欠けるが、室内楽的に見通しの良いアンサンブルであり、むしろこのほうが19世紀中頃のバランスに近いかもしれない。とはいえ、RIAS響のような無国籍に近いモダニズムとは違う、あくまでも伝統色の強いコスモポリタンである。インテンポで歌うように流れる弦楽の響きは、どんな指揮者が教えようとしても教えられないもので、プラハ時代から引き継いだ伝統と思われ、下記のケッケルトSQの演奏にも同じ資質がみられる。
 初期の1951年のモーツアlルトと1952年のブルッフの録音は、深い森から響くような分厚いサウンドが聴かれるが、これは1951年のフルトヴェングラー/BPOのセッションで聴けるものとも共通である。ハフナー・セレナーデは作品のマンハイム風の剛直さとイタリア風の甘さが浮き彫りにされていて面白い演奏だ。低音がブカブカするほど豊かな割には、弦全体の抜けが足らない。2kHz当たりに少しピークがあり弦の芯が強いのに対し、6kHz以上が弱いので音が詰まったようになる。これは、戦中から伝承されていた当時のマイクセッテイングとも関わりがあり、Neumann社のCMV3型双指向性マイクをオーケストラの中央に置き、両翼のヴァイオリン・セクションおよびコントラバス側に向け、中央の木管、金管はホールから回り込んで収録される。多分、ドイツ製のフルレンジのトーンはこうした収録方法に合わせたものであると思われる。一方で、単指向性のマイクで録られたソロ・ヴァイオリンはきっちり録れているため、少し違和感が残る。
 これに対し1953年〜1954年のセッションはこうした問題が解消されるため若干聞きやすくなる。収録マイクがM49に代わったためと思われるが、木管〜ヴィオラの中音域が弱めに聞こえるのは共通している。フルトヴェングラーがあと2年後にセッション録音していたら結構な高音質で収録された可能性が高い。さらに他のオーケストラでの1956年以降の録音になると、木管も潤いのある音で収録されるようになるが、これは3本のマルチマイクでの収録に変えられたためと思われる。
C.RIAS交響楽団

バルトーク 弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 (1954年)
 フェレンク・フリッチャイ指揮
バルトーク 管弦楽のための協奏曲 (1957年)
 フェレンク・フリッチャイ指揮

 1950年代のドイツ・グラモフォンを語るうえで欠かせないのがRIAS響である。大戦後のベルリンのアメリカ占領地区で、RIAS放送局付属のオーケストラとして発足したが、決してにわか作りのオケではなく、ソ連占領地区に入ったベルリン歌劇場のメンバーが多く参加しており、演奏レベルは非常に高い。ベルリン歌劇場は戦前にエーリッヒ・クライバー、クレメンス・クラウス、カラヤンと引き継いできた名門オケで、クライバー時代にはベルクのヴォチェックを初演するなど、現代曲も得意とするアンサンブル力を保持していた。ともかくレパートリーの広範さもさることながら、その適応力も高く、ここに演奏させれば間違いないという安心感がある。ハンガリー出身のフリッチャイは、経歴としてはパッとしないが、当時のハンガリー出身の指揮者、ライナー、ショルティなどと同じく、オーケストラ・ビルダーとして優れた一面と、新即物主義の最先端を行く精密な演奏で席巻した。フリッチャイの指揮ぶりは、切れの良さに加え柔軟性も兼ね備えた感じで、RIAS響をしっかりドライブしている。一方で、大半がモノラル録音であることと、RIASという地方放送局に縛られたこと、フリッチャイという個性との兼ね合いで、カラヤン時代の録音の陰に隠れてしまった感じである。
 一方で、最近RIASの放送音源が多く出回るようになり、グラモフォンとは別の音楽都市ベルリンの多彩な様相が浮かび上がってきた。壮年期にセッション録音の機会に恵まれなかったクナッパーツブッシュ、クレンペラー、ベームなどの面々が、結構な量のライブ録音を残した他、フルトヴェングラー/BPOのライブ録音も後にグラモフォンからリリースされた経緯もあり、いわばセッション録音の内容を補うように考える必要がある。
【教授のレッスン】
 1950年代に意外に需要があったと思われるのが、室内楽と器楽の録音である。というのも家庭用ラジオで再生する際に無理がない規模感なのは明白で、特に夜に聴く音楽として適量なボリュームで聴ける利点がある。そう思える理由として、以下の点が挙げられる。
  1. ピアノの音がかなり癖の強いカマボコ型で、しかも芯がない。
  2. 逆にヴァイオリンは中高域の芯が強く痩せギスである。
  3. これらは2kHzがへこみ、4〜8kHzにピークをもつドイツ製ラジオ用スピーカーの特性と真逆の方向性である。
 これらを総合すると、1950年代のグラモフォンの室内楽は、戦前から続く放送用音源に近いバランスで収録されていると思われる。ちなみに、この特性とペアになっているのがNeumann社 CMV3型マイクで、サウンド・ポリシーを総合的に見ないと中々理解しがたいところである。これは、ドイツ国内のローカル・ルールに沿った録音で、1930年代のテープ録音の開発当初からオリジナルな音響システムを伝承していた結果、それ自体に何の疑問も感じないまま品質保証していた可能性が高い。
 
Neumann社 CMV3型マイクの特性
最も指向性の広いのは1kHz前後で、それ以上の高域は指向性が強い(音響エネルギーは低い)

Isophon社のラジオ用(左)とオーディオ用(右)の特性の違い
ラジオ用は500Hz〜2kHzがへこみ、3〜6kHzで急激にピークをつくる

 しかし、いざ国際市場に出て行くことを考えると、ケンプのベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集は、その演奏内容の素晴らしさに比べ、Deccaのバックハウスに知名度のうえで負けているのは明白で、ブレンデルはケンプのDecca録音を高く評価している。これは、ドイツ人しか持ち得ないオーディオ・システムであり、1950年代のグラモフォン録音への評価を難しくしている原因のように思われる。
バルトーク ピアノ作品集 (1955年)
 アンドール・フォルデス(P)

 バルトークとの交流もあり、戦前からレパートリーに加えていたいわば戦友同士。ハンガリーからアメリカに亡命後は、ロシア系のヴィルティオーゾ・ピアニストが並み居るなか、なかなかレコーディングのチャンスに恵まれなかったが、戦後ドイツに立ち寄って多くのレパートリーを残したのは幸いであった。リスト直系のドホナーニの弟子であり、ロマン派ヴィルティオーゾから新即物主義への転換時の先頭に立った人として記憶される人である。この時のレコーディング・プログラムは、ベートーヴェンからリストの延長線上にバルトークを位置付ける野心的なもので、フォルデス自身の名刺代わりのようなものである。
 録音はモノラル期のグラモフォン特有のカマボコ型の特性で、個人的にはマスターテープの劣化が原因だとばかり思っていた。これを4〜8kHzに強い山のあるヴィンテージのスピーカーで聴くと、音の抜けが良くなり、一本調子のように思っていた強健なタッチが、実は一点の曇りもない狙いすましたショットのように正確に打ち込まれていることが判る。それほどに複雑なバルトークの和声進行を抜けよく再現しており、単に打鍵が鋭いとか、民族色が強いとか、そういうレベルでの解釈が恥ずかしくなるような、古典的フォルムがしっかりした演奏である。
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集 (1951〜56年)
 ヴィルヘルム・ケンプ(P)

 LP発売直前に企画され5年をまたいで録音された全集。ケンプは戦前のラッパ吹き込みからベートーヴェンのソナタを多く録音しており、既にドイツ楽壇の代表的存在であった。この録音は壮年期の技巧と解釈のバランスが高度に保たれている時期のもので、テーマの流れを丁寧に拾っているにも関わらず、ペダルをあまり使わずに冗長した表現をそぎ落としてインテンポで攻めてくる。戦前の演奏はもっとテンポ・ルバートが強かったように思うが、ここでは音の強弱を繊細にコントロールすることで、歌謡性と構成感を両立させている。
 録音はベートーヴェン・ザールで録られているにも関わらず、残響の少ないデッドな音で、ステレオ録音に慣れている人は、一筆書きの単調な演奏に聞こえるかもしれない(よく淡々と弾いていると間違われる)。特にピアノ録音の生命線ともいえる、高音の立ち上がりと倍音の共鳴は、モノラル期のグラモフォンのピアノ録音では周波数バランスがカマボコ型であるため、余計に朴訥とした雰囲気になりやすい。ベヒシュタインを使ったとか、そういうことを気にする以前の問題と思う人も多いだろう。4〜8kHzに強い山のあるヴィンテージのスピーカーで聴くと、目の前で自分がピアノを弾いているかのように、リアルに音が展開する。弱音部での繊細で柔らかい響きは、モノラル収録に対してナイーブすぎて音がくぐもるが、これこそベヒシュタインの魅力であり、ケンプ教授の思索の森の入り口でもある。
モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ集 (1953〜55年)
 ウォルフガング・シュナイダーハン(Vn)、カール・ゼーマン(P)

 シュナイダーハンは激動の1938〜49年にウィーン・フィルのコンマスを務めた名手で、後任をバリリに譲ったあとはソリストとして世界中で活躍した。同世代の新しい作品も積極的に演奏したが、やはりレパートリーの中心はウィーン縁の作曲家の作品である。ウィーン情緒タップリのモーツァルトかというとそうでもなく、フレーズを堅めにキッチリ弾くタイプで、これは他のウィーン・フィルのコンマスにも共通する独特のクセである。多分、残響の多いムジークフェラインのような場所で、アンサンブルを揃えるために必要とされた奏法のような気がする。
 一方の相棒というか、このCDの主役は2010年に生誕100周年を迎えたピアニストのカール・ゼーマンである。こちらはライプチヒでギュンター・ラミンにオルガンを学び、1930年までオルガニトだったというから、シュナイダーハンとは出自も流儀も異なるが、二人はよほど相性が良かったらしく、ステレオ期に入っても長くコンビを組んでいる。ゼーマンはどちらかというと戦前から教育分野で活躍した人だが、グラモフォンにはモーツァルトのピアノ・ソナタ全集やピアノ協奏曲集を録音している。ギーゼキングと似た新即物主義の演奏スタイルであり、やはり同世代のロシア系ピアニストの陰に隠れ、再評価が始まったのが1999年からと言われる。その際には批評家のヨアヒム・カイザーが太鼓持ちを買って出たというのだから、いわばドイツ・ピアノ界の秘宝ともいうべき存在なのだろう。
 録音は、やせぎすのヴァイオリンとあんこ型のピアノの取り合わせで、あまり良い印象ではない。モノラル期のグラモフォンの癖がモロに出た格好だ。例えば同じ時期に録られたメンデルスゾーンやブラームスの協奏曲では、ヴァイオリンは適度の残響と潤いのある音で収録され、シュナイダーハンの連綿とした歌い口がとても判りやすいので、これは単純にグラモフォンの室内楽録音における癖だろうと思う。一方で、この癖のある音の狙いがどこにあるのかを読み解くことは、モノラル期のドイツ・グラモフォンを知るうえで欠かせないような気がする。個人的には品質管理したモニタースピーカーがどうのというよりは、それよりもっと先にあるもの、家庭用ラジオに答えとなる鍵があるような気がしている。つまりは原音再生ではなく、ドイツ国内でのラジオ・プログラムを意識した音質なのではないかと思う。そういう観点で聞き直すと、これは隈取りの良い音に分類され、コンサートのライブのように音の揺れや会場ノイズも乗らない。そしてラジオ放送用に調整してある4〜8kHzに強い山のあるヴィンテージのスピーカーで聴くと、この矛盾が少し解けたような気がする。
 演奏のほうは、さすがミスター・ウィーン・フィルだけあって、噛めば噛むほど味が出る。ゼーマンの音量を抑えながら作為を感じさせない自然なフレーズ感も絶妙だ。いわゆる緊張感のあるアンサンブルではないが、ベテラン奏者同士が食事しながら対談しているようなくつろぎの時間が延々と続く。この時間の作り方は、ウィーン・コンチェルトハウスSQと同種のもので、いわばカフェで聴くシュラルメンのような、音楽によるくつろぎを提供するサービス精神が根底にあるのだと思う。面白いことに、同じウィーン出身のクラスナーがウェーベルンとBBCで収録したベルクのヴァイオリン協奏曲(1936年収録)で、シュナイダーハンの演奏スタイルと同じ傾向が聴ける。
ベートーヴェン 弦楽四重奏曲全集 (1953〜56年)
 ケッケルトSQ

 ルドルフ・ケッケルトを始めこの四重奏団のメンバーは、プラハのドイツ・フィルハーモニーからバンベルク響、そしてバイエルン放送響にいたるまで、コンサートマスターおよび首席奏者を務めた、陰の支配人である。柔軟でありながら読みが深く推進力のあるアンサンブルは、アメリカで流行した高精度の演奏とはひと味もふた味も違い、室内楽の楽しみを満喫できる。こうした柔らかく機能的なアンサンブルは、1950年代のバンベルク響で聴けるものと同様のコスモポリタン的性格をもっている。むしろケッケルトSQのほうが元祖ともいうべきもので、Adagioをインテンポでしっかり歌うことのできる芸当は、思っていてもなかなかできないもので、流れるように次々と楽想が展開していく様は圧巻である。これはバンベルク響のドボルザークNo.8の第3楽章でも顕著で、オーケストラに拡大してなお質を落とすことなくきっちり歌い抜く資質は、ボヘミヤ地方の伝統とも言えるかもしれない。
 上記のシュナイダーハンによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集が異常にデッドなのに比べ、同時期の同じ会場での録音とは思えない潤いのある音で、タワーレコードのリマスターが良いのか、理由は判らない。ただオーケストラの場合と違い、基本的にオンマイクで録られているようで、このことが幸いしている。


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